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[GH]悪霊だってヘイキ!下

八章 八月十三日 午後十一時-午後十二時


     1

「……もう、誰《だれ》もいないの」
 じっと白い顔を見上げるあたしに、ナルはちょっと微笑《わら》ってみせる。
「よく、見てごらん」
 言って、白い手が壁《かべ》の一方を示した。示した先の壁が透《す》けていく。
 あたしはじっと目を凝《こ》らす。壁だけじゃなく床も何もかも透けていって、闇《やみ》の中に教室の輪郭《りんかく》だけが細い線で残る。そこに飛んでいるいくつもの光。
「一階の控《ひか》え室にたくさん鬼火《おにび》が集まってる……」
「うん。今はあそこにいる。……ほかに、見える?」
「ふらふら動きまわっているのも、いるよ」
 小さな白い鬼火が、一階の廊下《ろうか》を漂《ただよ》っている。数を数えると二十一。
「それから?」
 聞かれて問い返す。
「それから?」
「ほかには?」
 あたしはもう一度周囲を見渡す。明るい光がいくつか見えるのに気がついた。
 すぐ間近江に見える光はピンクがかっている。よく見ると光の中に人影が見えて、それは、座《すわ》りこんでいる自分の姿だった。
 隣《となり》の教室にはうっすらと赤い光が見える。その光の中にも人影が見える。
「……ぼーさん」
 ぼーさんは隣の部屋にいる。壁にもたれて何かを考えこむようにしている。
「……ぼーさん」
「……生きてるの……?」
 言った瞬間、頭の中をひとつのイメージが通り過ぎる。階段の途中で身を起こす。階段を見上げて誰もいない。二階を探しても、誰もいない。
 ……そうか。
 あたしは横で微笑《わら》っているナルをふりかえる。
「ひょっとして、ぼーさんにとって消えたのは、あたしたちのほうなのね?」
「そう」
「それじゃ、みんなもそうなの? ジョンも真砂子《まさこ》も……みんな?」
「そうだよ。たぶんね」
 ナルの声が本当に優《やさ》しい。
 視線を一階に向けると、玄関にいくつかの人影が見える。何かを唱《とな》えながら歩きまわっているのはジョンだ。壁ぎわに座っているのがナル。その隣に座っているのが安原《やすはら》さん。反対側に立っているのは真砂子だ。誰のまわりにも、うっすらと光が取り巻いている。総じて白い光だけど、ごく淡《あわ》く色がついていた。
 一階の廊下には綾子《あやこ》とリンさんが歩いているのが見える。綾子が奥から歩いてくる。リンさんが奥へ歩いていく。ふたりはぶつかりそうになって、すっと重なるようにしてすれ違《ちが》ってしまう。
「あれ……」
 あたしが指さすと、ナルはうなずく。
「みんなここにいる。だけど、お互いの存在がわからない」
「そうなんだ……」
 泣きたいぐらい、嬉《うれ》しかった。ちゃんとみんないる。ひとりも欠《か》けてない。
「これからあたし、どうすればいいの?」
 聞くと、肩に手がのせられる。
「もうそろそろ、ひとりでできるようになってもいいね」
「聞いちゃ、ダメってこと?」
「そうじゃない。――もう落ち着いた?」
「……うん」
「ここはまだ、しばらくは安全だ。だから安心して、もう一度やってごらん」
「もう一度?」
 ナルはうなずく。
「そう。僕に引っぱり出されるんじゃなく、自分で出てくるんだ」
 ……引っぱり出されるんじゃなく、出ていく……。
「じゃあ、ずっとナルが夢を見させてくれたの?」
 ……ひょっとして、暗示で? そういうこと?
 ナルの返答はない。綺麗《きれい》な笑顔が返ってきた。

     2

「身体《からだ》の中に帰すから、もう一度、自分でやるんだ」
「……うん」
「戻ったら、うんと緊張して身体を縮《ちぢ》める」
「緊張するの?」
「そう。全身に力を入れて、両手は上げておいたほうがいいね。胸の前で指を組んでおく」
「こう?」
 やってみせると、うなずく。
「うん。それから、ゆっくり息をして、自分の呼吸を整える。手の指の先から力を順番に抜いていく」
「よく、わかんない」
「全身に力を入れて、ゆっくり息をする。息をするときに、自分がどういうふうに呼吸してるのか、それに意識をむける。吸って、吐いてを三回くりかえしたら、まず手の指の力を抜くんだ」
「三回、ね?」
「何回でもいいんだけど。三回ごとに、少しずつ力を抜いていく。指の次は手首、手首の次は肘《ひじ》。肩の力を抜いたら、今度は足の力を抜く。腕の時と同じように指から。間接ごとに順番に抜いていくんだ。――わかる?」
「うん。わかった」
「手足の力を抜いたら、今度は腰《こし》から順番に胴《どう》の力を抜いていく。姿勢が崩《くず》れるけど、気にしないで。倒《たお》れそうになったら、倒れてしまっていいから」
「うん」
「首の力まで抜いて、全身の力が抜けたら、桐島《きりしま》のことを考える。ぼんやり意識するだけでいい。うまく意識できないなら、控え室の鬼火《おにび》のことを考えるんだ。桐島という文字を思い出すのでもいい」
「……わかった」
「目覚めるときには、自分の身体のことを思い出す。それでちゃんと帰れるから」
「うん。やってみる。――でも、説得って? どうすればいいの?」
 ナルは、はんなり笑う。
「光を吹きこんであげること」
「光?」
「うん。――僕《ぼく》にもよくわからないけれど、天国があって地獄《じごく》があるという考え方は、ある意味で正しいという気がするな。――人は『身体』と『霊』でできている」
「うん」
「僕は『霊』はさらにふたつのものからできていると思っているる『魂《たましい》』と『自我《じが》』だ。『意志』という言葉があるけれど、これで考えると『意』と『志』だね」
「ふうん……」
「この『自我』が『魂』をくるみこんでいるんだ。『自我』は膜《まく》のようなもので、『魂』は水のようなものだと考えるとわかりやすいと思う。『魂』という形のないものを、『自我』はある形にととのえる働きをする。『自我』という膜は透明《とうめい》なので、中に入っている『魂』という水の色が透《す》けて見える。『自我』と『魂』がふたつで作り出す形と色が『霊』なんじゃないかと思うんだよ」
「へえぇ」
「さらに『魂』は、水が酸素と水素でできているように、『気持ち』という粒子《りゅうし》でできている。『気持ち』という粒子にはプラスとマイナスがあって、プラスの粒子は光を放射し、マイナスの粒子は光を吸収する」
「プラスの『気持ち』は輝いていて、マイナスの『気持ち』は暗い、ってこと?」
「そう。プラスの『気持ち』は光で、マイナスの『気持ち』は闇《やみ》だ。『魂』の活動によって、このふたつの粒子が絶《た》えず作られては『自我』という膜の外に放射されていく。――わかる?」
「わかる……ような気がする」
「プラスの粒子は軽いからどんどん上に昇っていく。マイナスの粒子は重いから沈んでいく。そうして光どうし、闇どうしが集まって大きな場を作る」
「それが、天国と地獄なんだね」
 ナルはうなずいた。
「人が死ぬと、『霊』だけになる。そのとき、『魂』がマイナスの粒子をたくさん含んでいると『霊』は重いから沈んでしまう。反対に、プラスの粒子をたくさん含んでいると昇っていける」
「桐島先生も子供たちも、マイナスの『気持ち』が多すぎて沈んでしまったんだね?」
「そういうことだ。『霊』がどんどん沈んでいくと、プラスの『気持ち』は軽いから上に昇ろうとする力が増して『霊』の外にはじきだされてしまう。すると、そのぶんさらに重くなって沈むから、いっそうプラスの粒子ははじきだされやすくなる。そうやって……、やがてはマイナスの粒子だけになってしまう」
「それが悪霊?」
「――うん」
 言って、ナルは目を伏《ふ》せる。
「……彼らはみんな、死にたくなかった。だから死んでしまった事実を受け入れることができない。恐《こわ》かった、悲しかった。そしていま、寂《さび》しく、辛《つら》い。ああやってこの世にあった喜びは、二度と手に入らない」
「……かわいそう……」
 ナルはちょっと影のある笑いを浮かべた。
「マイナスの『気持ち』をいっぱいにためこんで、暗い底に沈んでいる。だから、彼らを救うために必要なことは、光を吹きこんでやることだ。プラスの『気持ち』を吹きこんであげる。するとそのぶん、軽くなって昇っていけて、昇ったぶんだけプラスの『気持ち』を取りこみやすくなる」
「でも……どうやって」
「まず第一に、麻衣《まい》自身が光になることだな」
「光になる?」
「そう。プラスの『気持ち』は暖《あたた》かい優《やさ》しい感情のことだ。同情じゃいけない。哀《あわ》れみでもいけない。本当に純粋《じゅんすい》に優しい気分になって、それで相手に語りかける。そうするとプラスの粒子が言葉と一緒に放出されていくんだ」
「難しいね、それは」
 ナルは笑った。
「少しも難しくない。すごく素直に優しい気分になれた瞬間や、本当に暖かく思ったときのことを思い出していればいいんだ」
 ……暖かい、優しい記憶……。
「そういう気分になれない人もいるけれど、麻衣は違う。――だろう?」
「そうかな」
「生きたままマイナスの場に沈んでいる人もいるんだ。本当は『霊』のありかたに、生死は関係ないから。けれど、生きている人の『自我』は厚い。だから、いくらこちらがプラスの粒子を放出しても、なかなか相手の内部に届かない。生きている人を、他人が救うことが難しいのは、それだからだね」
「……死んだ人の『自我』は薄い?」
「とても薄い。自分を信じて。絶対にできる」
「……うん」
 ナルは微笑《わら》って、それからあたしの肩をそっと押す。すっとナルの姿が遠ざかった。
 ふと、我に返った感覚がする。
 ぴくん、と掌《てのひら》が痙攣《けいれん》する。
 あたしの目の前には闇が広がっている。正面の窓だけが微《かす》かに明るい。
 あたしはドアにもたれていた身体を起こした。
「ナル……」
 あたし、なんだかわかってしまった。あたしがああやって身体を抜け出すことができるなら、ナルにだってできないとは限らない。ナルはあたしがトランス状態に入れるよう、暗示をかけてくれるはずだった。分断されてそれができないから。それで――。
 きっと、そうなんだ。
 あたし、ナルの夢を見てるんじゃない。本当にナルに会ってるんだ。
 ――ああ、だから、と思う。
 いつか真砂子《まさこ》が言ってた。真砂子が霊につかまったときだ。ナルがそばにいたって。きっとナルは、真砂子を励《はげ》ましにいったんだ。
「……すごい。考えられない」
 あいつがそんなこと、するなんて。
 でも、身体を離れて会うナルはすごく優しい。身体を抜け出していくのが『霊』で、身体がないほうが『自我』が薄くなるのだとしたら、身体を離れた『霊』だけのほうが、より相手の本当が見えやすいということなんじゃないだろうか。だとしたら、そういうことなのかもしれない。たぶん、奥底であんなに優しい……。
「あたし……ナルが好きだなぁ……」

     3

 言われたとおりに身を縮《ちぢ》める。全身に力を入れて、ゆっくり呼吸をする。
 それから順番に力を抜いていく。まず、手から。肘《ひじ》の力を抜いたところで胸の前で指を組んでいた手が膝《ひざ》の上に落ちる。――それから足。力を抜くと足が横倒しになって。胴《どう》の力を抜いて。
 首の力を抜くと、コクンと首が俯《うつ》いてしまう。そのままじっと息をしていると、ふわっと身体《からだ》が浮き上がる感じがした。
 ――そして、突然の衝撃。
「……!」
 身体が横に放り出される。全身を息が詰《つ》まるほど強く打って、目をあけると真っ暗な闇《やみ》。何が起こったの? あたし、失敗したんだろうか。
 何ひとつ見えない闇の中を見渡す。動悸《どうき》が少しおさまると、耳に細い声が響いた。
 目を見開いて耳を澄《す》ます。闇に目が馴《な》れるようにして、徐々に周りの景色《けしき》が見え始める。それと一緒《いっしょ》に、声がいくつもの細い声だとわかった。
 シートが並んでいるのが見える。バスの中だ。あちこちが歪《ゆが》んで、窓のガラスも全部割れてて、そうして大きく傾《かた》いている。そこに細い悲鳴と泣き声が満ちていた。
「……マリコ」
 人の声がした。男のひとの声だ。
「ツグミ。タカト」
 いちばん前の座席の下から男のひとが身を起こした。
「だいじょうぶか? 全員、だいじょうぶか?」
 彼は立ち上がって、後ろに向かって歩いていく。すぐ後ろの座席から小さな女の子を抱き上げた。
「アイ、しっかりしろ。だいじょうぶか?」
 尋《たず》ねてというより、すがっている声だった。言外《げんがい》に、頼むからだいじょうぶだと言ってくれ、という悲痛な願いが聞こえる。
 女の子はぐったりしたまま、弱い呻《うめ》き声をあげている。彼の願いは聞きとどけられなかった。
「……ミカ。……マサミぃ」
 彼はアイちゃんを抱いたまま、ふらふらと後ろへ向かう。座席にも通路にも倒れてしまった子供たちの姿が見えた。彼はアイちゃんを抱き上げたまま通路に倒れたツグミくんの間近にひざまずく。片腕にしっかりアイちゃんを抱《かか》え直して、ツグミくんを抱き寄せる。そうしながら、彼は周囲の惨状を見渡している。ひしゃげて傾いたバスと、そこで最期《さいご》の声をあげている十八人の子供たち。
 彼は子供たちの名前を呼びながら、小さな身体をかき集める。全員を抱きしめることなんかできるはずもないのに、全員を腕の中に抱き寄せようとする。
「……どうして……なんだ」
 嗚咽《おえつ》が聞こえる。あたしは男のひとが声をあげて泣くのを初めて見た。
「どうして、こんなことが」
 弱い声が、先生、と呼ぶ。
「……いたいよぉ……」
「せんせぇ……」
 あたりは苦しそうな子供の泣き声でいっぱいになる。それを見回してから、彼は号泣《ごうきゅう》するようにしてその場につっぷした。
「せんせい、こわいよ」
 マリコちゃんが泣きながら彼の服を引っ張る。つぎつぎに小さな手が伸びて、彼に助けを求めた。
「いたいよ、せんせい」
「こわいよぉ」
 彼は周囲に集まった子供たちを見渡す。ひとつずつ彼にすがる手を叩《たた》いた。
「だいじょうぶだ。……だいじょうぶだからな」
「せんせぇ……」
「心配ない。学校に帰ろうな。帰って、手当して、そしたらなんにも心配することはないからな」
「でも、いたくて、うごけいなよぉ」
「心配ない。全員ちゃんと先生が連《つ》れて帰ってやるから。だから、帰ろう」
 彼は泣きながら、それでも子供たちに笑ってみせた。
 視野がぼやけた。瞬《まばた》きすると涙になってこぼれて、もう一度視野が澄《す》むと、バスの奥にぽっかり開いた暗い穴に向かって子供たちの手を引いていく彼の姿が見えた。

     4

「……待って」
 あたしは思わず声をあげた。
「待ってください、桐島《きりしま》先生!」
 彼がふりかえる。
「ダメです。そんなこと、しちゃ、ダメ」
 暗い通路を彼は歩いてくる。顔に影が落ちて、どこか陰惨《いんさん》な顔に見えた。さっきまでの優《やさ》しい先生にはとても見えない。
「……連《つ》れていっちゃダメです。先生も、その子たちも、死んでるの」
 彼はあたしのすぐそばにやってくる。
「わかってください。もう、全員死んでるの。連れていっても苦しいだけで、楽になるわけじゃない。家にも帰れない、お母さんにも会えない。辛《つら》いばっかりで、なにひとつよくならないんです……!」
 腕が伸びて、あたしの肩をつかんだ。骨が音をたてるほど強い力で両方の肩をつかんで、力まかせに横に向かせる。
「先生!」
 ムリヤリ横を向かされて、そうして目の前に教室があった。
 あたしは教室の黒板の前に立っている。教室には十八の机が並んでいて、そこには子供たちが座っている。あたしに向けられる十八の視線。
「転校生を紹介するぞ」
 先生がそう言ったので、あたしは彼をふりかえった。彼の顔には明るい暖かな笑顔が浮かんでいる。
「谷山麻衣《たにやままい》さんだ。みんな、仲良くするんだぞ」
 はあい、と全員が声をそろえて笑う。
「谷山さんの席はそこだ。サオリ、面倒《めんどう》みてやれよ」
 はい、と返事をしたのはいちばん大きな女の子だ。先生に背中を押されて、あたしは教室に押し出される。どの子もすごく嬉《うれ》しそうにしている。
「谷山さんはみんなよりずっとお姉さんだから、困《こま》ったことがあったら相談してみろ。――谷山さんも、みんなの面倒をみてやってくれ」
 小さなイスに座らされる。隣《となり》のサオリちゃんがにこにこにと笑った。
「……先生、ダメです。こんなことしちゃ……」
 あたしが振り仰《あお》いだ桐島先生の脇《わき》に、小さな女の子がいる。
「せんせい、これでぴったり四十人だね」
 先生は女の子の頭を撫《な》でた。
「偉《えら》いぞ。ちゃんと計算できたな」
「うんっ」
 せんせい、とべつの子が桐島先生を呼ぶ。
「なんにんになったら、べつのクラスができるの?」
「そうだな。もうそろそろ二組に分《わ》けてもいいなぁ」
「そしたらクラスどうしで、ドッジボール、できるね」
「そうだな」
「でも、せんせいは? クラスがふたつで、せんせいがひとりなんて、へんだよ」
「だいじょうぶだ」
 先生は笑う。
「先生になってくれる人がいるから」
「ほんと?」
「本当だ。もうすぐ先生が増《ふ》えるぞ。そしたら職員室を作らないといけないなぁ」「すごいねぇ。はやくがっこうがいっぱいになるといいね、せんせい」
「そうだな」
 あたしは悲しい気分で先生と生徒の会話を見守った。
 ……突然の悲劇。悲しい心が作った、寂《さび》しい学校。寂しいから学校が生徒でいっぱいになればいい。もう新入生はいないから、せめて転校生を。寂しくて寂しくて、餓《かつ》えて餓《かつ》えて。気持ちがわるから、泣きたいぐらいせつない。
「桐島先生、やめてください」
 先生は怪訝《けげん》そうにあたしをふりかえる。
「もう、やめてください。校舎がいっぱいになっても、寂しいのは止まらないんです。みんなが寂しいのは生徒が少ないからじゃない。もう生きてないからなんです」
「……何を言ってるんだい?」
 先生は笑う。その目が不穏《ふおん》な色をしている。
「みんな、死んでるんです、もう。遠足の帰りにバスが事故にあって、みんな死んでしまったの。忘れたふりをしたって、みんな覚えてる。だから、いつまでも辛くて寂しいの。友達がどんなに増えたって、学校がどんなににぎやかになったって、もう生きることができない寂しさを癒《いや》すことなんてできない」
「君は、何を言ってるんだい?」
「先生の気持ちはわかる。こんなに小さな女の子が、突然死んでしまって。未来も夢もあったはずなのに、全部断《た》ち切られてしまって。怖《こわ》い思いをして、痛い思いをして死んでしまって。そんなの、なかったことにしたい気持ちはわかるけど、こうしている限り辛いままなの。連れてこられた転校生だって、同じように辛い……」
「谷山さんは、ちょっと変な子だね」
「もうやめてください!――みんなも、思い出して」
 あたしは自分を見つめている子供たちを見回す。いつの間《ま》にか三十九人に増えている子供たち。
「怖い事故があったの。それでみんな死んでしまったの」
 突然、前の席の男の子が泣き出した。それが伝染したように、ほかの子も泣き始める。「辛いでしょ? 悲しいでしょ? でも、連れてこられた転校生も同じように辛いの。辛くないようにするには、橋の向こう側に行くしかないの。川を渡ってしまえば、辛いのも苦しいのも全部なくなる。お友達を増やしても、辛いのはなくならないのよ」
 教室中が泣き声と、痛いよ、という声でいっぱいになった。いじめている気分がするけど、みんなを楽にしてあげるにはこうするしかないから。
「おうちに帰った人、いる? お母さんやお父さんに会える?」
 腕を激しい勢いでつかまれた。
「ひどいことをする子だね、君は」
「ひどいことじゃない」
「ひどいことだ。みんなこんなに泣いて、かわいそうだと思わないのか!」
「このままのほうがずっとかわいそうじゃないの!」
 帰りたくても帰れない。会いたくても会えない。それが死ぬということだ。この子たちはみんな死んでる。だから、どれほど願っても家には帰れない。お父さんにもお母さんにも会えない。
「あたしのお父さんもお母さんも死んでしまったの。あたし、ふたりがこんなふうにどこかに捕らわれていたらすごく悲しい。あたしのことなんか忘れてしまってもいいから、早く橋を渡って楽になっててほしいと思うの。だから、みんなにも楽になってほしい」
 いっぱいの泣き声。ほら、みんな忘れてない。こんなふうに、いつまでも辛い。
「ウソだ!」
 大声をあげたのは桐島先生だった。
「死んだなんて、嘘《うそ》だ。信じるんじゃない」
「先生、やめて!」
「僕の生徒に勝手なことをするな!」
 突然、何かが飛んできた。それが身体《からだ》を切り裂いた。ケガなんてないけど、突き抜けるような痛みが全身を痺《しび》れさせる。
「先生、わかってください!」
「うるさい! 僕も生徒もこのままでいいんだ!!」
 どんっ、と、何かが飛んできた。あたしは弾《はじ》き飛ばされそうになる。廊下《ろうか》に叩《たた》き出されて、壁に激突する刹那《せつな》、ナルの声を聞いた。
「麻衣っ! 戻れ!!」
 ――戻る? 戻るって、どこへ?
「自分の身体を思い出すんだ!」


九章 八月十四日 午前零時-午前一時


     1

 ふいと我に返って、あたしは覚醒《かくせい》した。
 目の前には深い闇《やみ》。あたしはほとんど寝転がりそうな姿勢でドアにもたれている。
「失敗……」
 失敗したんだ。あたし。
 ――かたくなで。
 あんなに、かたくなになってしまったひとを説得する言葉があるとは思えない。
「……桐島《きりしま》……先生」
 彼の辛《つら》さはわかる。わかるけど、このままじゃ放っておけない。
 あのままじゃ、子供たちがかわいそうだ。死んでしまった悲しみでいっぱいで、身動きできなくなってる子供たち。寂《さび》しいから寂しさを埋《う》めてくれる何かに餓《かつ》えて、仲間を呼んで。でもそれは少しも彼らをなぐさめない。手に入れたそばからどんどん悲しい。
 あの子たちを浄化《じょうか》してあげて、二度とここで子供が死ぬことがないようにしなくちゃならない。寂しいのをとめてあげなくちゃ、いけない。
 そして、桐島先生。
 自分の命をなくして、おまけに生徒の命のなくなったことを悲しんで。全部をなかったことにしようと、かたくなになっているひと。
 彼の気持ちはわかるけど、とても優《やさ》しいひとなんだとは思うけど。
 でも、彼が生徒たちを大切にしてあげたかったように、あたしもあたしの仲間を大切にしてあげたい。ちゃんと全員が会って、一緒《いっしょ》にこの校舎を出て、「またね」って言って別れるんだ。
 それであたしは、ふいにナルの言葉を思い出した。
「そっか……」
 なんて、馬鹿《ばか》なの、あたしってば。
「同情とか、哀《あわ》れみじゃいけないって言われたのに」
 コツンと頭をこづく。
 叱《しか》ったって意味がないんだ。光を吹きこんであげるんでなきゃ。
「よしっ」
 ひとりでつぶやいて、あたしは大きくはずみをつけて立ち上がる。
「再チャレンジだ」

 あたしは教室のドアを開ける。なんとなく、ここからいくら声をあげても意味がない気がした。
 ――教室に行こう。
 桐島先生が、子供たちがこだわっている場所に。きっと、あそこのほうが、先生にとっても子供たちにとっても、少しでも暖《あたた》かいだろうから。
 暗闇の中、壁を手でさぐりながら階段のほうに歩きだすと、かたかたと小さな音がした。ちょっと足を止めると、前方から音が近づいてくる。
 立ち止まったままで待つと、壁際に黒い小さな影があらわれた。ちょっと鼓動《こどう》が高くなる。
 曲がり角のところにあらわれた影は三つ。子供くらいの大きさだけど、どこかシルエットが歪《ゆが》んで見えた。小さな頭と、棒《ぼう》のような手足。胸も肩もあんなに小さいのに、おなかだけが異様なくらい大きい。棒のような足ではまっすぐに身体《からだ》を支えられないのか、しゃがみこむように足を曲げて、両手を使って奇妙な歩き方をする。
 ――危険だ、という思考。
 警戒心はプラスの『気持ち』だろうか、マイナスの『気持ち』だろうか。
 あたしは深呼吸する。
「……ねぇ、教室に行こう」
 そろそろと歩み寄ってきていた影が止まった。
「あのね、教室に戻ろう?」
 あたしはしゃがみこむ。
 異形《いぎょう》のものだと思うからいけない。いま目の前にいるのは、子供たちだ。人が『身体』と『霊』でできているなら、この子たちには身体がないだけだ。
 ――子供は好きだ。
 小さくて柔《やわ》らかくて、そりゃ、憎《にく》まれ口をたたくとナマイキでにくったらしいけど、それでも子供って、抱き寄せずにはいられない雰囲気《ふんいき》を持っている。
『渋谷《しぶや》サイキック・リサーチ』でバイトをするようになって、調査に行った先でもいろんな子に会ったな、と思い出して、あたしは軽く笑う。
 ついこの間までいた能登《のと》のおうちにも小さな子がいて、だらだらと滞在する間に仲良くなった。帰るときに、泣きそうな顔で、「また来てね」と言ってくれたのが嬉《うれ》しかった。みんな今頃どうしているんだろう。――って、この時間じゃ当然、寝てるだろうな。
 本当に微笑《わら》いがこぼれた。
「あのね、教室に行きたいの。一緒に行こう?」
 子供たちはちょっと首を傾《かた》ける。それが本当に子供特有の仕草《しぐさ》で、かわいらしい。
「クラスのみんなと、桐島先生に会いたいの。さっき意地悪をしてしまったから、ごめんなさい、って言いたいの。……ああ、あれって、夢なのかな、現実なのかな」
 子供たちはやっぱり首を傾けたまま、動かない。
「よくわかんないや。――とにかく、ごめんね、って言いたい気分なの。だから教室に行こう? 連《つ》れてって?」
 子供たちはもう一度顔を見合わせて、それからカサコソと動いて背中を向ける。階段のほうに向かってひとり、ふたりと歩きはじめた。
「……ありがとう」

 階段へ行くと、階段の下にも何人かの子供が見えた。気にせずに歩いていって階段を降りる。誰もあたしに危害は加えない。それが嬉しくて、どんどん気分が明るくなってしまう。――そうか、こういう単純さって、重要なんだなぁ。
 玄関にもふたりばかりの子供がいて、その子たちに笑って教室へ向かって歩いていくと、あとをちょこちょこついてくる。十人ばかりの子供が周囲をついてきて、それがなんだか楽しい。そのうち、そばにいたいちばん小さな子が折れそうなほど細い手を上げてきて、あたしは手をつないだ。
 枯《か》れた枝のような手触《てざわ》りの小さな手を握《にぎ》ったとたん、愛《いと》しさでいっぱいになった。

     2

 教室に入ると、中には子供たちがいっぱいいた。机に向かって座っている子、教室の後ろで集まっている子、机の間を歩きまわっている子、いろいろいて、本当に休み時間の教室に入ったようだ。
 教壇の脇《わき》のほうの机には、大きな影が座っていた。大人《おとな》くらいの大きさで、角《つの》のない鬼《おに》に似ている。先生は立ち上がった。立ち上がったまま黙《だま》ってあたしを見ている。
「さっきはごめんなさい」
 先生に軽く頭を下げて、そうしてあたしのほうを見ている子供たちにも頭を下げる。
「ごめんね」
 言って、それから教室を見渡した。
「酷《ひど》い言い方をしたから、ごめんなさい。でも、あたし、同じことを言います。もう、お友達を増《ふ》やすのはやめてください」
 先生が一歩、足を踏み出した。あたしは先生をまっすぐに見る。
「あたしの仲間を返してください」
 さらに一歩、近づく距離。
「先生がみんなを大切に思っているように、あたしも仲間が大切なんです」
 言って教室を見渡す。
「みんなが先生やお友達を好きなように、あたしも仲間が大好きなの」
 ナルとリンさん、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》。ぼーさんとジョンと安原《やすはら》さん。
 めぐり会ってから今日までにあった、暖《あたた》かいこと優《やさ》しいこと。
「ナルすごい冷血漢《れいけつかん》にみえるけど、じつは意外に優しいところもあるの。手品がうまいんだよ。前にそれで励《はげ》ましてもらったことがあるの」
 すっと音をたてるようにして教室の中に光が射《さ》しこんできた。単にそれは雲が切れて月の光が射しこんできただけなんだけど、なんだかとても励まされる気がする。
「リンさんだって、すっごい無表情で無口でとっつきにくいけど、やっぱじつは優しいひとなんだと思う。それにね、そういうひとだから、たまに微笑《わら》ってもらえたりすると、なんかもうけた気がして、すごく縁起《えんぎ》がいいような気がして嬉《うれ》しくなるの」
 微笑ってもらえたことなんて、片手で数えるほどしか、ないけどさ。
「とっつきが悪いというと、真砂子だってそうなんだけどね。ツンケンしてるようだけど、しっかりしてるヤツなの。チャッカリもしてるけどね。じつはけっこうケナゲで、あたしガラッパチだから、真砂子の女の子っぽいところっていいなぁーと思う。だから、真砂子と仲良くなれてすごく嬉しい。――うん、第一印象はぼーさんだって綾子だって悪かったんだけど。でも、みんなけっこうイイヤツなんだよね」
 ホント、考えてみると、みんなソトヅラよくないなぁ。
「綾子ってじつはすごく世話好きなんだよね。やかましいけど。ホントはあたし、綾子にやかましく世話をやかれるの、好きなの。お母さんを思い出して嬉しい」
 お母さんはもうちょっと静かだったけどね。
「綾子と話をしてるとすてばちな元気がでちゃう。だから、好き。ぼーさんに小言《こごと》をもらうのはお父さんに叱《しか》られてるみたいで嬉しいな。おっきな手でボコボコ殴《なぐ》られたり、ぐしゃぐしゃ撫《な》でてもらうのも、本当はすごーく好きなの。ナイショだけどね」
 言うとあのおじさんは、ズにのってやるにきまっておる。
「ジョンのちょっと変な関西弁が好き。万事にひかえめでおとなしくてねー。でも、ふっと思い出してふりかえったときに、優しい目で見ててくれたのに気がつくような、そういうことが何度もあってステキなの。安原さんのすごーく明るいとこも好き。一緒《いっしょ》にいると元気がでるんだよね。どんな大変な状況でも、安原さんの軽口とか、安原さんとぼーさんの漫才《まんざい》とか聞いていると、なんとかなるや、って気分になるんだ」
 ――うん。あたし、本当にみんなが好きだ。
「だから、返してほしいの。あたし、みんなが大切だから。みんなと一緒にいるのが好きなの。一緒に校舎を出て、一緒に東京に帰りたい。オフィス、なくなっちゃうけど、べつにそれで二度と会えないわけじゃないもんね」
 言ってあたしはちょっと照れ笑いする。
「……うん。あたし、もう会えないかも、って思ってたけど、オフィスがなくなってもつきあってね、って言ったら笑われるような気がしてたけど、そんなことありえないのがわかった」
 けっこうバカだよなー、あたしって。
「だってみんな、あたしによくしてくれたもん。ここにいる間だって、みんなに守ってもらえて。二度と会いたくないほど嫌《きら》いなヤツとか、二度と会えなくてもかまわないほど、どうでもいいヤツのために、あんなにしてくれないと思うの。あたしいま、みんなが大切だから一生懸命《いっしょうけんめい》になってる。そんなふうにね、一生懸命に守ってもらえたのは、あたしのことを気にいってくれたからだって、ちょっとうぬぼれてる」
 桐島《きりしま》先生はあたしを見ている。
 教室にいっぱいの子供たちもあたしを見ている。
「だから、みんなを返して。それでね、もうお友達を連《つ》れてくるの、やめてほしいの」
 軽く手をひかれて、あたしは小さな子の手を握ったままなのを思い出した。月の光がやみに馴《な》れた目に明るくて、その子が人の形をしてないのがはっきりわかる。
 手をつないだ小鬼は、あたしを見上げている。あたしはちょっと微笑《わら》ってみせた。
「連れてこられたお友達にも、あたしがみんなを大切に思って心配してるように、大切に思って心配してくれるひとがいるんだと思うの。あたしみたいに、大好きなひとがいたんだと思うの。大好きなひとと会えないのは辛《つら》いよ。大好きなひとがいなくなってしまったら、悲しい。――それはみんなも一緒だと思う」

     3

「いっしょ?」
 そう声をあげたのは、あたしの手を握《にぎ》ってる子だった。
「うん。――お名前は?」
「すぎうら、あやの」
 あやのちゃんの背筋が伸びて、いつのまにかまっすぐに立ってる。あんなに細かった手がちょっと太くなって、握った手の感触が少し柔《やわ》らかい。
「あやのちゃん、お父さん好きでしょ?」
「すき」
「お母さんも好きでしょ?」
「うんっ」
「あたしも、仲間が好き。あやのちゃんと、一緒」
「いっしょだね」
「うん。先生も好きでしょ?」
「だーいすき」
 あたしは笑った。
「すごく優《やさ》しい、いい先生だもんね」
「うんっ」
 うなずいた顔に、十歳くらいの女の子の顔がダブった。
「でも、おこるとこわいんだよ」
「そっか」
「てつぼうが、すごくじょうずなの」
「へえぇ」
「でも、ちょっとオンチなの」
 あたしは笑った。教室のみんなのほうを見る。
「みんなも、先生、好き?」
 聞くと、好き、という声が返ってくる。
「もしも、先生がいなくなったら、寂《さび》しいてしょ? いやでしょ?」
 うなずく、小さな顔。
「そんなふうに、転校生のみんなにも、寂しがるひとがいたの」
 しん、と沈黙。
「みんな、寂しかったから、あそぼ、って子供を連《つ》れてきちゃったんだね。でも、そうやって連れてこられた子にも、大好きな先生がいたの。……だから、もう、やめて」 席についた子供たち。月光のあふれた教室。
「あたし、仲間がいたから、お父さんもお母さんもいないけど、寂しくないよ。みんなは、先生やお友達がいても、クラスがひとつしかなかったら寂しい?」
「そんなことない」
 背後から声が聞こえて、ふりかえるとツグミくんだ。
 あたしはツグミくんの頭をくしゃくしゃ撫《な》でる。
「えらい。男の子だなー」
「うん」
 ツグミくんに笑って、あたしは桐島《きりしま》先生を見る。もう鬼には見えない。うなだれてうつむいている男のひと。
「みんな、すごく、先生のことが好きなんですね」
「…………」
「生徒を大好きな先生がいて、先生が大好きな生徒がいて、それってすごくいいな、って思う」
「……そうでしょうか」
「はい」
 先生は長いこと黙《だま》っていた。やがて、ぽつんと、
「ひょっとしたら、僕はたいへんな幸せ者かもしれないですね……」
「……はい」
 うなずいたときだ。背後から光がさした。ふりかえると、すぐ後ろにある教室のドアの隙間《すきま》から、明るい光がもれてくる。ドアを開けると、外は真昼だった。
 今まで暗いところにいたのに、少しもまぶしい気がしない。ドアのすぐ外は廊下《ろうか》ではなく草原だった。綺麗《きれい》な緑の柔らかそうな草がずっと続いていて、そこに明るい光がいっぱいに降り注いでいる。
 わぁ……と子供たちが小さな声をあげた。
 先生は外をまぶしそうに見て、それから教室の中を見渡す。
「――みんな、遠足のやりなおしをしようか」
 小さな歓声。
「バスでいくの?」
 そう不安そうに聞いたのはマリコちゃんだ。
「いや。バスは使わないぞ。みんなで歩いていくんだ」
「じゃ、あんしんだね、先生」
「うん。だいじょうぶだ」
 笑って、桐島先生はドアのほうに歩いてくる。あたしはちょっと脇《わき》によけて場所を空《あ》けた。ドアの脇に先生が立つ。
「行くぞ。――小さい子は上級生と手をつなぐこと。よそ見して遅《おく》れちゃダメだぞ」
 はぁい、と元気な声がする。
 そうして子供たちは、ある子はひとりで走って、ある子は小さな子の手を引いて、教室を順番に出ていった。
 先生はそれを見守って、そうして最後まであたしの手を握《にぎ》って離さなかった、あやのちゃんに向かって手を差し出した。
「あやのも行こうな」
「はぁい」
 あやのちゃんはあたしの手を離し、先生の手を握る。ふりかえって小さな手を振った。「おねえちゃん、ばいばい」
「ばいばい」
 桐島先生がちょっと頭を下げる。そのままあやのちゃんの手を引いて教室を出ていく。ドアが閉じて――そうしてあたしは教室の中に残された。
 ホコリのつもった床《ゆか》。ホコリのつもった机と椅子《いす》。それだけが残された教室。ガランとした空間につきの蒼《あお》い光がいっぱいに満ちている。
 そこで少し泣いたけど、けっして辛《つら》かったわけじゃない。

     4

 廊下《ろうか》に出て、ちょっと立ち止まった。閉じた窓を見つめる。
 そっと手を伸ばして動かしてみると、ギシギシいいながら少し開いた。ふわっと夜の風が吹き込んでくる。湿《しめ》った草の匂いがした。
 あたしはにんまり笑って、今度は力を込めて窓を開ける。古いたてつけの悪い窓はつっかえ、ひっかかりしながら大きく開いた。
「へへへ……」
 校庭にも月の光がいっぱいに降り注《そそ》いでいて、すごく明るい。
 あたしは窓枠《まどわく》によじ昇る。
「えいっ」
 校庭にも月の光がいっぱいに降り注《そそ》いでいて、すごく明るい。
 あたしは窓枠《まどわく》によじ登る。
「えいっ」
 声をあげて、校庭に飛び降りた。
 なんとなく着地するなり走り出した。ざかざかぬれた草を踏《ふ》みわけて走って、ふりかえる。
 木造の校舎の全部が見渡せた。
 月の光で銀色に見える瓦《かわら》屋根。黒い穴のように見える窓、灰色の壁。いい風が吹いている。虫の声が高い。
「おーいっ」
 声をあげると同時に、二階の窓が派手に粉砕《ふんさい》されて落ちた。
「あっれー?」
 すっとんきょうな声とともに、窓枠から姿を見せたのはぼーさんで。
「ぼーさんっ」
 手を振ると、何か思い悩むようにする。
 ――あり?
「どうしたのー?」
「年齢と形式の問題について、考えてる」
 ぼーさんの声はよく通る。
「なに、それー?」
「ま、いっか」
 言うなり、ひょいと窓枠を乗り越えて。そりゃ、年寄りの冷や水よ、と言う間《ま》もなく二階の窓から飛び降りてくる。たしかに形式としちゃ、望むべき行動だけど、着地でよろめいたから減点だ。
「いやぁ、まだまだお若いですねー」
 そう声がして、見ると安原《やすはら》さんが二階の端の窓から顔を出している。
 ぼーさんは校舎をふりかえった。
「よう、本当に若いモンの腕前を見せてもらおーか」
「ええぇ、僕も飛び降りるんですかー?」
「若いんだろ?」
「受け止めてくれます?」
「お断《ことわ》り」
「なぁに、恥《は》ずかしいことやってんの」
 そう声をあげたのは、一階の窓から顔を出してる綾子《あやこ》で。
「わーいっ、綾子ー。ひさしぶりーっ」
「ホント、ひさしぶりね。どこに消えたのかと思ったわよ」
 あたしは笑う。
「あたしが消えたんじゃないもーん。綾子がいなくなったんだぞー」
「ヘリクツをこねないっ」
「あははは」
 本当のことなんだけどなー。
 玄関のドアが開いた。そこから最初に出てきたのはナルで。手を振ったら、興味なさそうにそっぽを向かれてしまった。――ちぇ。
 続いて出てきたのはリンさんの長身。
「リンさんもおひさしぶりー」
 声をかけると、ちょっとひるんだように立ち止まって、あたしに会釈《えしゃく》する。次に小走りに出てきたのが真砂子《まさこ》で。
「麻衣《まい》!」
「やっほー、真砂子。元気だったぁ?」
「いったい、何が起こったんですの? そういうあなたこそ――」
 言いかけて、真砂子は足を止める。こっちに駆《か》け寄ってきそうだったのに、方向転換してナルのほうに駆け寄ってしまうから、女の友情はモロイ。この正直者《しょうじきもの》めっ。
「麻衣さん、ダイジョウブでしたか?」
 そう言って本当に駆け寄ってきてくれたのは、一階の窓から飛び降りてきたジョンで。 ほんとーにジョンってば、優《やさ》しい。うるるる。
「うん。だいじょうぶー」
「よかったです。――みなさんも」
 三々五々近づいてくる人影を見渡して。
 窓から飛び降りるのを断念した綾子と安原さんが玄関から出てきて。
 ――それで全員がそろった。
「そんで? 誰《だれ》が何をやったんだ?」
 ぼーさんの声に誰もが首を傾《かたむ》ける。
 へへへ。それはあたししか知らないのだよ。
「と、聞くところをみると、滝川《たきがわ》さんじゃないんですね」
 安原さんの声に、ぼーさんがつまる。
「……少年じゃねぇのは確かだな」
「僕がやったんだったら、みなさんの立つ瀬がないでしょう?」
「そら、そーだけどね」
「渋谷《しぶや》さん……ということもないですよね。こうして無事たって歩いているところを見ると」
 ナルは軽く肩をすくめる。
「告白しておきますけれど、あたくしでもありませんわ」
 言ったのは真砂子で。
「リンさんでもブラウンさんでもないと思いますわ。除霊《じょれい》ではなくて、浄霊《じょうれい》でしたもの。浄化の光が見えましたから」
 ジョンはうなずく。
「さいです。ボクは何もでけへんかったです」
 そこで全員の視線が向かったのは綾子で。
 そらー、あたしはミソッカスだけどさ……ぶつぶつ。
「アタシーぃ?」
 綾子は目を丸くしてから自分を指さして。
「ち、違《ちが》うわよ。この近くにはおすがりできるような木はないもん」
 一拍の間。それから交錯《こうさく》する視線と視線。
 ねー、どうしてあたしを無視するわけ?
「……残るのはひとりしかいませんね」
 言ったのは安原さんで。
「まさか。勝手に浄化したほうに一票いれるわ」
 憎《にく》たらしいことを言ったのは綾子だ。
「さーて、帰るか」
 ひっどーい。しくしく。ぼーさんまで……。
 んでも、ぼーさんは車のほうに歩きだしながら、あたしの頭をぐしゃぐしゃかき混《ま》ぜてくれた。綾子にも真砂子にも背中を叩《たた》かれて。でもってジョンと安原さんの笑顔と、リンさんの縁起のいい微笑《わら》いと。そして、ナルの一言。
「……お疲れさん」
 ――まぁ、いっか。


十章 八月十四日 午後一時-午後三時


     1

「いいかげんに起きなさいっ」
 綾子《あやこ》のツンケンした声に目を覚《さ》ますと、バンガローの中は呆《あき》れるぐらい明るかった。
「おはよ……」
 眠いよー。まぶしいよー。
 布団《ふとん》に顔を埋《う》めたら、頭に拳《こぶし》が飛んでくる。
「起きなさいってば」
「うーん……」
 つぶやいたとき、いきなり地面が揺れて放り出される。――正確には、敷布団を身体《からだ》の下から引き抜かれて畳の上に転《ころ》がり落ちたわけ。
「いたーい……」
 目を開けると、ご飯の用意が整った部屋のすみっこで、あたしはたったひとりパジャマのまま薄《うす》い夏蒲団にしがみついていた。
「あー、ご飯だー。オナカすいたー」
「ほら、しゃっきり目を覚ましなさいっ! 年頃の女の子がみっともないわねっ」
 うるさいやい。眠いからどうでもいいや、そんなこと。
 眠いまんまボンヤリ部屋の中を見渡して、あたしははね起きた。
「……!」
 呆れた顔であたしを見てるのはメンバー多数で。
 ――げっっ。
 そーね。お布団を引き抜くなんてマネ、ぼーさんでなきゃしないわね。ジョンも安原《やすはら》さんも苦笑ぎみで、ちょっくら赤面してしまう。
 男の子の目の前で、あたしってば、ぐーすか寝てたわけ? そら、いまさら気取ってもたいがい本性はバレてるけど、これってさいてーでないかい?
「ああああ、おはよ」

 大慌《おおあわ》てで顔を洗って、隣《となり》のバンガローで着替えて(なにしろギャラリーが多いので、その場では着替えられない)、ご飯を食べに舞い戻った。
「いただきまーす」
 綾子の料理はナカナカ上手《じょうず》だ。派手《はで》な外見に似合わず、ひなびた料理が上手だったりするから、人間はわからないのよねぇ。
「ご飯だー、ご飯だー」
「昨日《きのう》の朝から食べてなかったもんね。さぞかしあんたはオナカすいてるでしょ?」
「あたしが食いしん坊みたいな言い方、やめてくれる?」
「違《ちが》うの?」
 ……違わないけどさ。
 ゆうべ遅《おそ》くに戻ってきて、とにかくお風呂《ふろ》に入って髪を乾《かわ》かす間《ま》もなく眠ってしまった。
「みんなは何時に起きたの?」
「あんたよりうーんと早かったのは事実ね」
 ……そりゃ、どーも、失礼しました。
「役場に行って村長さんに会って、買い出しに行って、ご飯を作って」
「お疲れー」
「ちょっとは申しわけなさそうな顔をしなさいっ」
 はいはい。寝かせといてくれて、ありがとーございます。

     2

「んで? けっきょく、事後処理はどうなったの?」
「助役に責任をとらせた」
 ぼーさんが言って、あたしはぼーさんの顔を見る。
「責任?」
「いまさら警察やなんやにわずらわされたくないだろ? かといって死体、ごろごろ見つけたあとでしらんぷりもできねーし」
 たしかにねぇ。
「そんで奴《やつ》が発見したとゆーことで。あとは連中が勝手にするだろ」
「そっか。……ま、自業自得《じごうじとく》よね」
「そうそう」
 ……死体といえば。
「ねぇ、ダムの作業はどうなったの?」
 言いながらご飯を食べられちゃう自分が憎《にく》いわ。
「現在進行中。やっぱ昨日は雨で中止になったみたいだぜ」
「ふぅん……」
 たいへんだなぁ……。
「あんたたち、よくそんな話をしながらご飯を食べられるわね」
 綾子《あやこ》が嫌《いや》そうにする。
「やだなー。綾子ってばデリケートなふりしちゃってー」
「アタシはあんたと違《ちが》って、本当にデリケートなのっ」
「ちちちっ。通んないよ、それは。霊能者のクセしてー。あたし、悟《さと》っちゃったもんね。しょせん霊能者なんて、お坊さんと同じさっ」
「なによ、それ」
「人が死ななきゃ、始まらない」
 何人かが吹き出した。
「それは言える」
「坊主の仕事ってのは、葬式《そうしき》だけじゃないんですがね、お嬢《じょう》さん」
 ぼーさんが顔をしかめるので、
「お葬式と法事のほかに何かあるの?」
「結婚式だってやる」
「うそだー」
「阿呆《あほ》。仏前結婚ってあんだぞ、一応」
「へえぇ」
「ちゃんと寺で、仏《ほとけ》さんの前で誓いをたてて数珠《じゅず》を交換する」
 ……数珠。
「あんまりロマンチックじゃないのね」
「ま、寺の子でもねーとやらねぇけどさ」
 そーだろうねぇ。女の子が憧《あこが》れるとは思えないもんなー。
「ま、いいじゃない。あんたは足を洗えるんだから」
 綾子に言われて、あたしはちょっと肩が落ちてしまった。
「そだねぇ。オフィスがなくなったら、もう調査に来ることもないもんね」
 せっかく浄霊できるようになったのになぁ。いや、べつにこういうことを続けたいわけじゃないんだけど。
「オフィスが閉まったら暇《ひま》にならはりますね」
 そう声をかけてきたのはジョンだ。
「……うん。ずーっとオフィスに行ってたから、時間の使い方に困《こま》っちゃうね」 お金にも困るかもしれないけどさ。バイトする前はどんな生活してたっけなぁ。
「そしたら、今度、日曜学校に来てみませんか?」
 あたしはきょとんとする。
「日曜学校? 教会で、子供集めて聖書《せいしょ》の勉強する、あれ?」
「ハイです。いつもはボクが面倒《めんどう》みてるんです。やんちゃなお子ばかりで楽しいです。麻衣《まい》さん、子供は苦手《にがて》ですか?」
「子供と遊ぶの、好き。でもあたし、聖書を読んだことないし……」
 ジョンは、はんなり微笑《わら》う。
「どうせ、ほとんど遊びですよって。お嫌《いや》やなかったら、一度遊びに来てください」
 日曜学校か。どんなかなぁ。
 てなことを思ってると、ぼーさんがくつくつ笑う。
「なによー」
「いや、どんなか想像できるんで」
「どんなか?」
「保父《ほふ》さんのジョン」
 場内爆笑。
 やだー、本当だ。きっと保父さんみたいだろうな。子供に遊ばれて困った顔して、それでも笑ってるジョン。目に見えるよーだ。
「いいねぇ、日曜学校か」
「ハイ。滝川《たきがわ》さんも、よかったら来てください」
「行ってみようかな。懐《なつ》かしいだろうなー」
 ぱちくりっ。
「懐かしい?」
「そー。俺《おれ》、小さい頃によく行ったもんな」
「……ちょっと待て」
「あ?」
「ぼーさんち、お寺では?」
「寺だよ。いいじゃないか、坊主の子が行ったって。日曜学校に行くと、聖書物語の紙芝居《かみしばい》があって、お菓子《かし》くれるんだよな」
 ……それが目的だったのか、破戒僧《はかいそう》。ほんとに、このおじさんはー。

     3

 ご飯をすませて、男三人を外に追い出して後片付けをして。
「誰《だれ》かバイトにやとってくれないかなー」
 言うと、お茶碗《ちゃわん》をふいていた綾子《あやこ》が苦笑した。
「やとってもいいけど、『渋谷《しぶや》サイキック・リサーチ』ほどはバイト料出ないわよ」
 あー。そっか。そうだろうなぁ。
「特別よかったもんね。――綾子って霊能者だけで生活してるの?」
「まあね。足《た》りなかったら親がくれるし」
「そっか。お金持ちなんだ。……玉《たま》の輿《こし》を狙《ねら》う必要なんてないじゃん」
 綾子はふっ、と笑う。
「上には上があるの。うちは別荘はあってもヨットはないもの。ほほほ」
「ぜいたくものー」
「アタシはぜいたくな女なの。あんたと違《ちが》って」
「べーだ」
「ほーほほほほっ」
「ひとりっ子だっけ。おうちは継《つ》がないの?」
「顔が良くて人間ができてて、実家が金持ちの医者が養子《ようし》に来てくれればねぇ」
 あたしは綾子をしみじみ見た。
「ほんっとに、ぜいたくもの」
「日本は貧富《ひんぷ》の差がある国なのよ。知らなかった?」
「知ってらい。――真砂子《まさこ》は? 兄弟いる?」
 茶碗をしまっていた真砂子は、目をパチクリさせた。
「いませんわ。どうしたんですの」
「身上調査。よく考えたら、あたしみんなのこと、ぜんぜん知らないんだよね」
「そう……でしたかしら」
「そう。オフィスがなくなったら、もうみんなにも会えないかもしれないでしょ。だから、今のうちに聞いとこうと思って」
「オフィスがなかったら会えない? どうしてですの?」
「そうじゃない?」
「そうですかしら」
 あたしは溜《た》め息《いき》をつく。
「あたし、真砂子の家も電話番号も知らないもん」
「あたくしも、麻衣《まい》の連絡先は知りませんわよ」
「うん。そうなんだよね」
「でも、聞けばわかることでしょう?」
「聞いたら教えてくれる?」
 真砂子は溜《た》め息《いき》をついた。そのままふいっと背中を向けて、部屋のほうに戻ってしまう。
「麻衣《まい》ちゃんは寂《さび》しいのね」
 綾子《あやこ》は笑う。
「うん。寂しいの。みんなにいじめられるのに馴《な》れちゃってー、いじめてもらえないと物足りない身体《からだ》になっちゃったのよね」
「いじめる、の間違いでしょ? アタシがどこかの大財閥《だいざいばつ》の御曹司《おんぞうし》を射止《いと》めて、お嫁《よめ》にいくことになったら侍女《じじょ》として連《つ》れてってあげてもよくってよ」
「うるさいっ」
 けっきょく、お仕事上のつきあい、ってやつだったのかもしれないな。
 深い溜め息をついたので、あたしには真砂子が戻ってきた足音が聞こえなかった。
「麻衣」
「にゃ?」
 真砂子はあたしの手を握《にぎ》る。
「真砂子?」
「…………」
「ちょ、ちょっと、なにすんだ、あんたはっ」
「…………」
「おいっ、ちょっと、あのねーっ」
「はい、どうぞ」
 真砂子はマジックをかざしてにーっこり笑う。綾子が爆笑した。
「……なに考えてんだ、真砂子」
「住所と電話番号ですわ」
「ふつう、それをひとの腕に書く?」
「あら、シャツに書いたほうがよかったですかしら?」
「あのねー」
 あたしは自分の腕をしみじみ見る。こんな大きな字で……。あーあ。
「手を出せっ」
「お断《ことわ》りですわ」
「んじゃ、着物に書くぞー」
「それも、お断り」
 本当にいい性格してるな、こいつ。
「はいはい。わかりましたよーだ」
「部屋にメモ用紙がありますわよ」
「…………」
「あらためてアドレスの交換、なんて照れますでしょ?」
 うん。真砂子がひとの腕に書いたわけがよーくわかった。メモ用紙に書いて大真面目《おおまじめ》に、連絡ちょうだいね、なんて言うのは猛烈《もうれつ》に恥ずかしいぞ。真砂子に限らず、ほかの誰にしてもそうだ。そういうのが気恥ずかしい仲ではあったんだなぁ。
「きっとみんなもそうだと思いますわよ」
「そっかなー」
「少なくともあたしはそうでしたわ。お年賀ぐらい出そうと思っても、住所を聞くのが照れくさいので、やめてしまいましたもの」
 あー、そうか。年賀状なんて風習もあったよなぁ。
「ジョンもそう言ってたわよ」
 綾子が言う。
「へ?」
「クリスマスにカードを出そうかと思ったけど、いまさら住所を聞くのも何か変で、って」
 うーん、そうか。そうかもなぁ。
「変な関係」
「そうねぇ」
「そうですわね」

     4

 あたし、ショックだった。
 オフィスにいたら、当然のように会えたひとたち。
 みんなのこと、好きだった。友達という言い方は変だけど、きっと兄弟か親戚《しんせき》みたいに思ってた。ずーっとこういう状態が続くんだて、思ってたんだ。
 ――でも、別れのない人間関係なんか、ない。
 別れるのがイヤだったら、イヤだって意思表示すればいいんだ。べつに死ぬわけじゃないんだから。あたし別れるのやだよ、ってアピールすればいい。そんで相手がどうするか、それはまた相手の問題。
 そういうわけで、あたしはその午後、メモ用紙をいっぱい消費した。色とりどりのマーカーを使って、名刺《めいし》を作ったわけさ。照れ隠《かく》しに、思いっきり華《はな》やかなのにした。たまには連絡してね、ってマンガの絵も描きそえて、ハート・マークなんか散らしちゃう。すくすく。
 それを三時のお茶の時に配《くば》ったら、みんなが呆《あき》れるの、笑うの。
「やぁ、谷山《たにやま》さんも女子高生だったんですねぇ」
「色とりどりでキレイでおますね」
「おじさんは目眩《めまい》がするぞ」
「美的センスを疑うわ」
「すてばちになりましたわね」
 なーんとでも言ってくだサイ。あたしは、ご縁《えん》が切れても連絡がほしいんだもーん。
「でも、これは名案だな。――メモ用紙あります?」
 安原《やすはら》さんは言って、ごそごそメモ用紙に即席の名刺《めいし》を作った。『明るいテレフォン・ボーイがいつでもお待ちしております』
 そう描かれた名刺を受け取って大爆笑。
「おまえ、テレクラじゃないんだから」
「電話ボックスにようあるやつですね……」
「明るいのは確かよねぇ」
「ですわね」
 安原さんらしいよなぁ。
 けっきょくあたしは、みんなから連絡先を教えてもらって、すごく幸せな気分になった。これで、オフィスがなくなったからって、もう会えないなんてことはないんだ。
 ――若干《じゃっかん》二名を除いては。
「これをナルとリンさんに渡したら、大爆笑だよね」
 誰《だれ》にともなく言うと、ちょっとした沈黙《ちんもく》が降りた。
 反応が目に見えるよーだ。一、呆れた顔をする。ニ、何を考えてるんだ、と言う。三、そのまま忘れる。
「あのふたりには、デリカシーないからねぇ」
 溜《た》め息《いき》混じりに言ったのは綾子《あやこ》で。
「あたしたちなんか、問題外でしょ。べつにこっちだって、連絡を取りあってまで会いたいとは思わないけど」
「ホントーに?」
 正直《しょうじき》にならないと、後悔《こうかい》するぞー?
「あら、そういうあんたは、特に会いたかったりするわけ?」
「うん。ご縁が切れても連絡がしほいていどには、ナルもリンさんも好きだなー」
 ――我《われ》ながらこれって、正直じゃない意見だな。
 そう思ったのだけど、綾子は目を丸くする。
「……どうしたの。正直じゃない」
「うん。ぐあい悪いと心配になるくらいには好きだし、秘密を持たれるとイライラするくらいには好きなの」
 ……あたしって、ぜんぜん正直じゃない。
「あたしたちなんか問題外で、これっきり二度と思い出してもらえないとして、あたしはふたりがすごい好きだから、それって片思いになるわけだけど」
「すごーく不毛《ふもう》な片思いよ」
「うん。でも、片思いが悲しくて、あたしだってあんたたちなんか好きじゃないよ、って言ったって、ぜんぜん意味がないもんね。そんなこと言ったって、ふたりにとってはあたしは問題外だから、傷ついてもくれないでしょ? やっぱりどっかへ行っちゃって、それきり忘れられちゃうわけ」
「そう……ねぇ」
「誰かに片思いして、ふりむいてくれない悔《くや》し紛《まぎ》れに『あたしだってあんたのことなんて嫌《きら》い』って言うのって、すごーくいじましくてカッコ悪い。両思いでないと、相手への好意を認められないなんて、かえってものほしげでダサイ」
 綾子はちょっときまり悪げに、あらぬほうを見る。
「大人《おとな》になったねぇ」
 ぼーさんにぱふぱふ頭を叩《たた》かれた。
「……うん。人間は成長するいきものなのよ。堕落《だらく》もするけどね」
「そこが楽しいのよ、人間は。ぼーさんは、麻衣《まい》ちゃんの前向きなところが好きだぞ」
「あたしもー。ぼーさん、好きーっ」
 なついちゃえ。すりすり。
「恥ずかしい連中……」
「あ、綾子、妬《や》いてんだ。仲間に入れてあげるよー。おいでー」
「やぁーよっ」
「正直じゃないっ。でも、そういう正直じゃないとこも含めて綾子が好き」
「俺《おれ》もー」
「やめてよ」
「好きなのー」
「なのー」
「やめなさいっ!」
「あ、赤くなってる」
「まっ。照れ屋さんね」
「ね」
「あんたたちはーっっ」
 その騒ぎの中で、あ、と真砂子《まさこ》が声をあげた。安原さんが立ち上がる。
「渋谷《しぶや》さん」
 勢いよく網戸《あみど》を開けて出ていくと、テラスの前をナルとリンさんが通るところだった。ナルたちが使っているバンガローはここより少し奥だから、水際《みずぎわ》に出ようとすると前を通ることになるわけだ。
「……ちょうどいいや。お急ぎですか?」
 ナルはちょっと怪訝《けげん》そうにして、
「急いでいるわけではありませんが、暇《ひま》というわけでもありません」
「ちょっとおたずねしたいことがあって。お時間をいただけませんか?」
「……今からですか?」
「今のほうがいいんですけど」
 ……おたずねしたいこと?
「お聞きします」
「じゃ、中へどうぞ」
「ここでお願いできませんか」
「ちょっとこみいった質問なもので。もうしわけありませんけど。――リンさんにもおたずねしたいことがありますので、どうぞ」
 ナルとリンさんはちょっと目を見交《みか》わすようにした。目を見交わすのは我々も一緒《いっしょ》だ。いったい何をはじめたのやら。
 ふたりはすぐにテラスを回って玄関に姿を見せた。
「ささ、お座りください」
 あたしたちをかき分《わ》けるようにして、安原さんはふたり分の場所をつくる。そこにナルとリンさんを座らせて、自分も真剣な表情で前に座った。
「……それで、ですね」
 何を聞こうというのだろう?
「お茶はダージリンとアールグレイと、どちらがいいですか?」
 ナルは眉《まゆ》をひそめる。
「お茶は結構です。用件を――」
「ですから、どちらになさいます? ホットにしますか、アイスにしますか? 濃《こ》さはどれくらいにします? ミルクをつけますか、レモンをつけますか? それともキャンブリックティーかチャイにします? それともリンゴで匂《にお》いをつけますか? クッキーと冷たいバターケーキがありますけど、どちらになさいます? 両方ですか?」 ……ぽかーん。
「ね、こみいってるでしょ?」
 にーっこり笑う安原さんと、溜《た》め息《いき》をつくナル。
「それが、用件ですか?」
「それが用件です」
 きっぱり真剣な返答に、ナルはさらに深い溜め息をついた。
「……なんでもけっこうです」
 ををを。ナルとリンさんをお茶に引っ張りだすとは。
「うまい。サスガは越後屋《えちごや》」
「なんつー、老獪《ろうかい》な」
「ナンパの達人《たつじん》っ」


十一章 八月十四日 午後三時-午後三時三十分


     1

「オフィスを閉《し》めて、そのあとどうするんですか?」
 そう勇気ある質問をしたのは安原《やすはら》さんだ。
「それが安原さんに何か関係があるんですか?」
 ……ほらね、聞いたって言うようなやつじゃないって。
「え、ありますよ」
 安原さんは全然こたえたようすがない。
「あたりまえじゃないですか。やだなー、僕たち仲良しさんでしょ」
 ナルはひどく冷たい目つきで安原さんを見た。
「それは、存じあげませんでした」
「おや? 気がついてなかったんですか? オトモダチじゃないですかぁ」
 ゆ、勇気ある発言。
「身に覚《おぼ》えがありませんね」
「冷たいなぁ。僕ら、渋谷《しぶや》さんのことがとっても好きなのに」
「いつもの冗談《じゅうだん》でしたら相手が違《ちが》いますよ」
「本当ですってば。いえ、今もね、渋谷さんっていいひとだよね、って話をしていたところでして」
 ナルはうっすら笑う。
「それは、大いなる誤解《ごかい》をありがとう」
 ……だめだ、こりゃ。
「そういうくだらない話をするために、僕をわざわざお呼びくださったんですか?」
「くだらなくないですよ。僕らは、だぁい好きな渋谷さんとリンさんがこれからどうするのか、気にしているだけでして」
「ご心配は無用です」
「好意を抱いている相手のことは心配になるものなんです」
「それでは、ご好意は無用です、と申しあげておきます」
「僕が誰《だれ》を好きになろうと、そんなのは僕の勝手です」
「僕が今後どうするかも、僕の勝手だと思いますが? ――ご心配なく。みなさまにご迷惑《めいわく》をかけるようなことはありませんから」
 安原さんはひとつ、溜《た》め息《いき》をついた。
「そうやって何もかも隠《かく》したがるのは、何か事情があるからですか? それとも、僕らと距離を作りたいからですか?」
「どうとっていただいても結構です」
「渋谷さんはじつはこの場にいる人間を嫌《きら》っていて、プライヴァシーに踏み込まれるのは気持ち悪くて我慢《がまんすできない、と思ってもかまわないということですか」
「そう思っていただいても、いっこうにかまいませんが」
 ……こっのー、冷血動物がーっっ!
「わかった」
 ああ、もう切れちゃうわ、あたし。
「あんたがあたしたちを嫌っているのは、よーくわかりましたとも」

     2

 はしたなくも、部屋の中央に仁王立《におうだ》ちしちゃう、あたし。そのくらい腹がたってるのよ、今は。ええい、今日という今日は勘弁《かんべん》ならんっ。
「嫌《きら》いなら、嫌いでいい。でもね、だったらどうして、あたしたちにかかわるわけ?」
 ナルはちょっと眉《まゆ》をひそめる。
「かかわる?」
「そうだよ。あたしをバイトに誘《さそ》ったのは、あんただよ? バイトでも調査員でもないみんなを、調査のたびに呼んだのだって、あんたじゃないのっ!」
 おまえなんか、おまえなんかっ!
「あたしたちのことが、そんなに嫌いなら、最初からかかわらなきゃいいじゃない!」
 ナルは軽く額《ひたい》に指を当てる。
「……吠《ほ》えなくても聞こえる」
 こっの――ぉぉ。
「どうせ、犬猫にしか見えないんでしょ。そんならそれでもいいけどね。みんながここにいるのはなんでだと思うわけ? みんなあんたが入院したのを心配して残ったからここにいるわけじゃない」
「野次馬根性《やじうまこんじょう》、という言葉もあるな」
「ふざけんじゃないっ!!」
 むかむかむかむかむかむか。
「みんなが残ったのを野次馬根性のせいだと思うんなら、あんたはバカだ」
「自分がバカだとは知らなかったな」
「そう? だったらいい機会だから覚《おぼ》えとけば? みんなが心配してたのもわからないんなら、あんたって大バカよ」
 指を突きつけちゃう。
「あたしたちは善良で心優《やさ》しい血の通った人間だから、知り合いが倒《たお》れれば心配になるの。――そもそもね、嫌《いや》なヤツが相手だったら、調査のたびに呼ばれたって来るもんか。いっつもいっつも危険な思いして。あんたみたいなヤツでも見所《みどころ》のあるヤツだと思うから、みんないっつも手を貸してくれるわけじゃない。あんたがそんな性格でも許してくれるわけじゃないの。それって好意なんだよ、わかってる?」
「好意をねだった覚えはないが」
「バカみたい! ほんっとうに頭悪いんじゃないの? ――もちろんそんなの、みんなの一方的な好意だよっ。でもね、みんなは好意で手を貸してくれてるの。その好意が迷惑だったら、手を貸してくれなんて言うべきじゃないんだよ。みんなの好意をわかってて利用したんならあんたは卑怯者《ひきょうもの》だし、そもそも好意をわかってないなら、単なるバカだ」
 ナルはちょっと溜《た》め息《いき》をつく。
「……それで? 僕にどうしろと?」
「他人に好意を向けられたときには、それなりの態度ってもんがあるんじゃないの? 少なくともあんたは今までみんなの好意のうえに胡座《あぐら》をかいてきたんだから、少しは誠意をみせる義務がある」
 対するナルは氷の無表情。
「義務でなくて、麻衣《まい》の勝手な希望だろう? みんなの意見を代表しているかのような口ぶりだが」
「わかった。じゃ、あたしの意見。――あたしだって、あんたに好意を向けてきたひとりなんだからね。誠実な対応を希望する権利がある」
「いつでも希望がかなうとは限らない」
「そっくりそのまま、あんたに返してやる。ナルはこのまま、全部をはっきりさせないで帰りたいんでしょーが、そうは問屋《とんや》が卸《おろ》さないんだからね。何もかもあんたの都合《つごう》のいいように動くほど、世の中、親切じゃないんだからっ!」
「ふうん?」
 ふうん、だと? こいつ、世の中をなめてるな。
「TV局に、気功《きこう》の達人《たつじん》だっていってあんたの写真、持ち込んでやる」
 ナルはウンザリしたように、あたしを見る。
「……いったい、何が気に入らないんだ?」
「全部っ! べつにいいよ、これっきり会えなくても。あたしだって、あんたみたいな鉄面皮《てつめんぴ》、会いたくもないやいっ! でもね、このまま不透明なのが気に入らないのっ!」
「どうどう」
 ぽん、とあたしの頭を叩《たた》いたのはぼーさんだった。

     3

「気安くひとをぽかぽか殴《なぐ》るな!」
「わーった、わーった。わかったから、ちったー落ち着け」
 なーにが、わかった、だよ。がるる。
「おまえがムカつくのはわかるが、ナル坊にも事情ってもんがあらぁ。そうムキになるな」
 ありとあらゆるマスコミに投書してやる。幸い昨今《さっこん》はオカルト・ブーム。そんでもって、マスコミに追っかけられれば、ざーみろだい。ほほほほほ。
「要はおまえは、不透明なことが不透明なまま終わるのが嫌《いや》なんだな?」
「そうだよ」
「透明になったら、それで納得《なっとく》できるんだな?」
 あたしはポカンと、ぼーさんを見る。
「透明になったら、そりゃ。――でも、このトーヘンボクがしゃべると思う?」
「さてな」
 言って、ぼーさんはナルを見る。
「おまえ、折れる気はないか?」
 対するナルは無表情。
「その必要を感じないな」
 ぼーさんは天井を仰《あお》いで溜《た》め息《いき》をつく。
「依怙地《いこじ》なことで。――ほんじゃ、ちっとばかり質問をしたいんだが、答えてもらえるかね?」
「くだらない問答につきあう気はない」
 ぼーさんは眉《まゆ》を上げる。
「それじゃ、世間話《せけんばなし》につきあう気は?」
「時間の無駄《むだ》だな」
 言い捨ててナルは立ち上がったのだけど。
「時には無駄も必要ですよ。人生には」
 そう言ってニッコリ笑う安原《やすはら》さんは、玄関のドアに背中を預《あず》けている。
「実力行使ですか?」
「とーんでもない。僕は単にこのドアが気に入っただけです」
「少しの間、そこをどいてくれませんか」
「僕はこのドアを熱烈に愛しちゃってるので、やです」
 ナルはちら、とリンさんに目をやる。
「腕ずくで通ることもできますよ」
「腕ずくで来られると、痛いなぁ」
 そりゃ、安原さんは肋骨《ろっこつ》折れたまんまだもんね。
「ケガを悪化させるだけだと思いますが」
「それは困りますよね。悪化して、救急車を読んだりすることになったりして。リンさんに暴力を振るわれた、なんてことを僕が口ばしったりすると、警察まで来ちゃいますもんねぇ」
「状況からいって、加害者はそちらですが」
「それはますますマズいなぁ」
 安原さんはそう言って、優等生の笑顔を浮かべる。
「ここはひとつ、穏便《おんびん》にいきましょう。僕も輝かしい経歴に傷がつくのは嫌《いや》だし、渋谷《しぶや》さんも警察に調書を取られて、かくしておいたことがモロバレになるのは嫌《いや》でしょう?」
 ナルはひとつ、溜め息をつく。
「……そんなにムキになるようなこととは思えないんだが」
 ぼーさんが苦笑した。
「そりゃ、おまえの勝手な考え。やっぱ、釈然《しゃくぜん》としないことが釈然としないままだと、人間、落ち着かないもんだろーが」
 ナルはもうひとつ溜め息をついて、ぼーさんをふりかえる。間仕切《まじきり》のガラス戸にもたれて腕を組む。
「五分間」
「そんな、セコイことを。三十分、ほしいね」
「十五分」
 ぼーさんはニンマリする。
「おっけー。十五分、な」

     4

 ……いったい何が始まるのやら。
 きょとんとして部屋の中を見回すと、安原《やすはら》さんとジョンは妙に心得た顔つき。さてはこいつら、ツルんでるな。
「何がどうしたっていうわけ?」
 あたしの気分を代弁してくれたのは、綾子《あやこ》だ。
 ぼーさんはニンマリする。
「不透明を透明にするんだろ? そういうわけで、さくさくいかせてもらおーか」
 ふに?
「さて」
 そう、ぼーさんは言ってナルを見る。
「俺《おれ》がまず最初に疑問に思ったのは、名前のことなんだ」
 わけがわかんない。あたしはぼーさんをつつく。
「……名前って?」
「渋谷《しぶや》の渋谷じゃできすぎだってことさ」
「あ?」
「麻衣《まい》はおかしいと思わなかったか? 渋谷にオフィスをかまえる所長が渋谷」 べ、べつにおかしいとは思わなかったけど。
「ぐーぜんじゃないの?」
「考えられる可能性は三つしかないわな。一、単なる偶然《ぐうぜん》。ニ、名前が渋谷なので、シャレで事務所を渋谷に決めた。ニ、偽名《ぎめい》」
「偽名ぃ!?」
 ぼーさんはうなずく。
「そ。これが俺や少年なら、シャレってこともあるだろう。しかし、残念ながらナル坊じゃありえん」
 ……そりゃ、そうだ。ナルは、シャレやジョークとは対極にいる人間だもんなぁ。
「いちばん可能性があるのは偶然、ってやつだ。東京の一等地といったらいくつもない。青山《あおやま》に青山さんがいることだってあるだろうし、銀座《ぎんざ》に銀座さんがいることだってあるだろうさ」
「銀座はないよぉ」
「まぁまぁ。しかしな、もうひとつひっかかることがあるんだよなぁ」
 ぼーさんは言って、ナルをねめつける。
「最初に俺たちが会った時だ。ナルの台詞《せりふ》を覚えてるか? 『おまえもさっき呼びすてにしたろうが』」
 ……覚えてる
 あれはナルがあたしを「麻衣」って呼びすてにして、そんであたしが「あ、ひとのこと、呼びすてにした」って文句《もんく》を言ったらば、そう言ったんだ。「おまえも、さっき言っただろうが」。
「変な台詞だったからさ、妙に印象に残ったんだ。麻衣はべつにナルを呼びすてにしたりしてない。ニックネームで呼んだだけだ。いわく、『ナルシストのナル』ってさ。――ところが、だ」
 言って、ぼーさんはリンさんに目を向ける。
「リンもナルもそう呼ぶんだな。――これは、おかしい」
 あたしはキョトンとしてしまった。
「どして?」
「リンがボスを『ナルシストのナル』なんて、呼ぶような性格か? もしも、麻衣の言うとおり『ナル』ってぇのが『ナルシスト』からくるニックネームだとしたら、絶対に、断固として、確実にリンだけは『ナル』とは呼ばないはずだ。――違《ちが》うか?」
 ……それは、たしかに……。
「まぁ、実際のところは本人たちに聞いてみるしかないわけだが、少なくとも俺は疑問に思った。それで俺はちょいと疑惑を抱いたわけさ。――ひょっとしたら、渋谷一也《かずや》ってのは偽名で、本名のほうがナルなんじゃないかってさ」

     5

 本名のほうがナル――?
 あたしが思わずふりむくと、ナルは相変わらずのすました顔。うっすらと皮肉っぽい笑いを浮かべる。
「……うがったところを突《つ》いてくるな」
「ふふん。お楽しみはこれからだぜ?」
 ぼーさんは笑って、それからウロウロ部屋の中を歩き始めた。
「それなら、リンが当然のように『ナル』と呼んでも、なんらさしつかえはないわけさ。そう思ってふと思い出してみるとだな、俺《おれ》はナルの本名がまさしく『渋谷一也《しぶやかずや》』であるという証拠を見たことがないんだな」
 ……そう言われてみれば……。
「でもぼーさん、あたしは? あたしが谷山麻衣《たにやままい》だって証拠を見たことある?」
「ないな」
 そう言ってぼーさんは笑った。
「しかし、麻衣とナルとじゃ事情が違《ちが》う。というのは、だ。以前にもナル坊は一度入院したことがあったろう」
「あ、ちょっとだけ」
「そう。あの時にだ、ナル坊の病室には名札がなかったんだな」
「……確かに……」
「病院の名札というやつは、保険証にある本名が書かれるべき場所だ。ところがその名札はどういうわけか白紙だった、と。当然本名が提示されてしかるべきときに提示されなかったわけだ」
 でも、と言ったのは綾子《あやこ》だ。
「今回は、ちゃんと名札があったじゃない。『渋谷一也』って書いてあったわよ」
 そうそう。
「それなんだよ」
 言って、ぼーさんはニンマリする。
「ナル坊は二度入院して、そのうち前回には名札がなく、今回は名札があった。そして、だ。前回は見舞いを断《ことわ》っておきながら、今回は毎日のように見舞いに行っても何も言わなかった。さらに前回はどうだか知らないが、今回ナル坊は保険がないと言って法外な治療費を要求された、ってわけだ」
 あたしは首をかしげる。
「つまり? 前回はうっかり病院に本名を言ってしまったから、名札を白紙にしてもらった、ってわけ?」
 ははん?
「すると当然、医者や看護婦《かんごふ》は本名を知ってるわけよね? それで、本名があたしたちに伝わらないよう、見舞いを差し止めた、ってことかな? ――それで、今回はそういうことがないように、わざと保険証がないって言って、高い治療費を払うかわりに偽名で押し通した、ってわけ?」
「そういうこと。推測にすぎないがな。しかし俺は『渋谷一也』が偽名である可能性は限りなく高い、と思うね」
 ……ふうむ。
「さてと。仮に『渋谷』ってのが偽名だとして、だ。そうして本名がナルだとしても、これまた変だ。なる――あんまし聞かん名字だわな。じゃ、下の名前のほうか? なる、ナル。……これもあんまりありそうにない名前だわな」
 あたしは、ふと。
「あれじゃないの? いつかの事件で使った『鳴海《なるみ》』って偽名。それがじつは本名で、その省略形が『ナル』だったりして……」
「違うと思うがな。それであの台詞《せりふ》が出てくるか? 『呼びすてにした』という」
 ……それは確かに……。
「と、いうわけで」
 そう言って、ぼーさんはナルに視線を向ける。
「せめて『渋谷一也』というのが偽名か本名か、それだけでも教えてもらえんかね」
 ナルはごく薄《うす》く笑った。
「……答える義務を感じない」
「ああ、そう。じゃあ、いい。次、いこう」
 あたしは、ぱちくりしてぼーさんを見上げる。
「次って、まだ何かあるの?」
「あるかって? もちろん、あるさ」

     6

「俺《おれ》はナル=『渋谷一也《しぶやかずや》』というのは非情に胡散臭《うさんくさ》いと思ってる。名前だけじゃない。ナル坊の私生活というのはほとんどが謎《なぞ》だ。学校に行ってる様子《ようす》がない、というのはこの際おいとこう。どこに住んでるかわからない。自宅の連絡先を教えない。これはどう考えたって不自然だ。明らかにナルは自分の住んでいる場所を隠《かく》したがってるんだな」
「そだね」
 聞いても教えてくれないんだもんな。
「問題はなぜ隠すのか、ってことなんだよ」
「それはやはり、ファンが押しかけてくる可能性を考えて」
「却下《きゃっか》だ。オフィスをかまえていちゃ、自宅だけ隠しても意味がない。考えられる解答はひとつしかねえな。つまり、ナルの住んでいる場所はそれがどこだかバレただけで、ナルの隠したがってることを暴露《ばくろ》してしまう可能性があるんだ」
「隠したがってるってこと?」
「ナルの正体、ってやつだ。こいつは自分のプロフィールを隠したがってる。こいつが住んでいる場所は、それがどこだかわかったとたん、奴のプロフィールを暴露す危険性をはらんでいる。だから、隠すんだ。違うか?」
 ぼーさんが視線を向けた先には、他人事《たにんごと》のような表情をした白い顔がある。
「……返答を要求してるのかな?」
 そう言われて、ぼーさんは軽く息をついた。
「なぁ、麻衣《まい》。家を見て、その家の住人についてわかることがいくつもあるよな。一戸建てかマンションかアパートか、大きいか小さいか、建築の程度は高級か低級か。庭の広さは、犬を飼っているか、車の数は、住人の数は――。そこからずいぶんたくさんのことを推理できる。そうだろ?」
「うん」
「もしも『渋谷』が偽名だとすれば、そこには本名の表札だってぶらさげてある。だから家を隠すのはわかる。しかしだな、なぜ電話番号まで隠すんだ?」
「それは……局番がわかればどのへんに住んでるかわかるし、電話帳を根気よく探したら住所だってわかるでしょ?」
「局番だけで家を探せるか?」
「えーと」
 どうかなぁ?
「電話帳なんて番号を載《の》せてなきゃ、どうしようもないだろうが。つまり、ナルが個人的に持ってる電話なら番号を隠す必要はどこにもないんだ。個人の電話を持ってないから、断固として隠す必要がある。例《たと》えば呼び出しであるような場合、だな」
「呼び出しぃ?」
「そ。例えば、その代表が家族と同居している場合。この場合、家族はナルが故意にプロフィールを隠していることを知らない。もしもそれを知ってりゃ、適当に話を合わせてくれるるだろうからさ」
「ふむ?」
「それと、共同の電話しかない場合だな。電話をかけると事情を知らない家族や大家《おおや》が出る。するとだ、プロフィールを隠したい人間としちゃ、それはちょっとまずいだろ」
 ……共同の電話しかないような、下宿屋さんに住んでるナルというのは……考えがたいものがあるなぁ……。
「――もっとも、周《まわ》りの人間に口止めする手もあるわけだが、こいつはそれをしてない。それができない事情があるわけだ。だから電話番号を教えられないのさ」
「そんなの、個人的に電話を引いてしまえばすむことじゃない」
 口をはさんだのは綾子《あやこ》だ。
「不自然に電話番号を隠すより、よっぽど自然でしょ。電話なんてあったほうが便利に決まってるんだし。ナルは収入だってあるんだから、電話が引けないなんてことはないでしょう?」
「ないだろうな。――綾子の言うとおりだ。そのとおりなんだよ。これは何を意味していると思う?」
 綾子は天井を見上げる。
「収入的に電話を引けないとは思えないわよね? とすると、家族が電話を引かせてくれない。そうでなきゃ、大家さんが電話を引かせてくれない」
「そう」
「しかも、家族にしろ大家さんにしろ、ナルのプロフィール隠しに協力してくれない、ってわけね?」
「そういうことだ。しかもこのうち、家族が電話を引かせてくれない、ってのは可能性が低いと思う」
 ――ふに?
「どして?」
 おいおい、とぼーさんは苦笑する。
「ナル坊は未成年だぞ? 事務所を借りる、電話を引く、何をするにもいちいち保護者の同意が必要なはずだぜ?」
「あ、そっか」
「事務所の責任者だと言って、ナルは堂々と顔出ししてるだろう。つまり、ナルがやってることに、少なくとも親が協力してないはずはないんだ。黙認《もくにん》、または協力。だったら電話ぐらい引かせてれそうなもんだろう」
「……たしかに」
「つまりだ、ナル坊の住んでる場所というのは、賃貸住宅もしくはそれに類する場所で、大家を抱き込みにくく、かつ個人的に電話を引きにくい場所ってわけだ」
 ……それはどういう場所なんだろう? あたしの住んでるアパートでも、電話は引ける。共同の電話しかない、気むずかしい大家さんのいるアパートか、それとも……。
 綾子はぼーさんをねめつける。
「そういうアパートなんだ、なんて言ったら殴《なぐ》るからね」
 ぼーさんは苦笑する。
「そういうアパートである可能性はあるが、俺はそうじゃないと思うね」
 ふに?
「家でもなきゃ、マンションでもアパートでもねぇ。――ホテルなんじゃねぇの」

     7

「あ」
「あ」
 あたしと綾子《あやこ》は仲良くハモッてしまった。
 ぼーさんはうなずく。
「住んでる場所がだ、ホテルだとしたら、ちいっと電話番号を教えるのはまずいよなぁ。フロントが出ちゃうからさぁ。フロントを抱き込んで話を合わせてもらうのも難《むずか》しそうだな。電話を引かせてくれるところもあるが、まぁ話がややこしいわな。とりあえず切実に個人の電話が必要ないなら、電話番号を隠《かく》しておいたほうがよっぽと話が早い」
「でも、ということは……」
 あたしはナルを見る。どういう人間ならホテルに住む? それもこんなに長い間。
「ナル坊は東京の人間じゃない。東京に定住する気もまったくない」
 ……そういうことだったのか……。
「兄貴《あにき》をずっと探してたと言ったな? こいつはおそらく、兄貴を探すために東京に来て、とりあえずホテルに入ったんだろ。こんなに長い時間がかかるとは思わなかった。だからちゃんとした住まいを探す気がなかった。――違《ちが》うか?」
 全員の視線が集中したけど、当のナルの表情はゆるがない。
「返答する義務を感じない」
 やれやれ、というようにぼーさんが溜《た》め息《いき》をついたとき、綾子が声をあげた。
「ちょっと待ってよ」
「ん?」
「ナルが、お兄さんを探していたのはいいとして、実際にはここは長野《ながの》よ? ナルが前から旅行だって言って出かけたのは、ここを探すためでしょう? 日本全国を飛び回ってたんじゃない。だったら、なにもわざわざホテルに住んでまで東京に足場を置く必要なんてないんじゃないの」
「それだな。例《たと》えば綾子はどうする」
「そんなの、自宅を足場にして手がかりをたどっていくわよ。そのほうが合理的だし、安上《やすあ》がりだわ」
「そのとおりだ。だがな、もしも自宅がうんと遠かったら? 自宅から北海道《ほっかいどう》に行くほうが、東京から北海道にいくよりもうんと遠かったら、しかたがねぇんじゃねぇの?」
「それはそうだけど……」
「でも、それってどういう場所?」
 あたしが聞くと、ぼーさんは笑う。
「自分の場合で考えてみればいいのさ。麻衣《まい》にとって大切なひとがどこかで眠ってる。それがどこだったら、わざわざ引越しする必要があるか?」
 ナルは本当に日本中を駆《か》け回ってた。つまり、お兄さんがいる場所は北海道かもしれないし、沖縄《おきなわ》かもしれなかったわけだ。だったら自分がどこに住んでても一緒《いっしょ》だという気がする。わざわざ引越しする必要なんかない。……いや、待てよ?
「……外国」
 もしも誰《だれ》かが失踪《しっそう》した場所が日本ではなくアメリカだったら。だったら、とにかくアメリカに渡ってホテルなりアパートなりに落ち着かないとしかたがないんじゃないの?
 あたしはナルを見る。綾子も、ナルを見る。
 ぼーさんはうなずいた。
「そういうことだ。――補助要因がいくつもある。例えば、こいつは格言やことわざに弱いんだよな。漢字にも弱い。自分でも『漢字は苦手《にがて》だ』と言ってる。調査の時のメモは横文字、オフィスでデータの整理にも横文字が多々つかわれる。日本語を読んでいるところは見かけるが、日本語を書いているところを見たことがない」
「あ……」
 あたしがつぶやくと、ぼーさんは片眉《かたまゆ》を上げてあたしを見る。
「最初に会ったとき、何年生、って聞いたら十七って。すごく変な答えた方だと思った……」
 学校に行ってないせいだと、あとで勝手に納得《なっとく》してたけど。
「だろ? ――これをさっきの、じつは偽名なんじゃないか、というのと結びつけると、おさまるべきところにピタッとおさまるんだ。こいつは、日本人じゃない」
「でも……だって」
「顔が日本人に見えるからといって、日本語がしゃべれるからといって、日本人だとは限らない。リンがいい例さ。そうだろ?」
 リンさんの日本語はとても流暢《りゅうちょう》だ。外見だって日本人にしか見えないけど、それでも彼は日本人じゃない」
「そう考えると、だ。学校に行ってないわけもわかる。ホテルに住むくらいなら、転校手続きなんて取っちゃいないだろう。行きたくても行けないし、行く気もない、と」
「……そうだよね」
 綾子が首を傾《かし》げる。
「じゃ、香港《ほんこん》?」
「それは俺も考えた。ひょっとして中国人かな、ってさ。それでもナルという名はあまり考えられんわな。ま、それについちゃ本人に聞くのが早い」
 そう言って、ぼーさんはナルに聞いた。
「――生まれはどこだい、ナル?」
 ナルは答えない。闇色《やみいろ》の視線をぼーさんに注《そそ》いで、皮肉っぽい笑みを浮かべるだけ。
 ぼーさんはさらに軽く溜《た》め息《いき》をついた。


十二章 八月十四日 午後三時三十分-午後四時


     1

「――あくまで黙秘《もくひ》か」
 ぼーさんはすねたように言って、顔をあげる。
「じゃ、勝手にどんどんやっちゃうよ、俺《おれ》は。次、いこう」
「次ぃ?」
 ま、まだあるの!?
「そ。俺がもうひとつ、猛烈《もうれつ》に不思議《ふしぎ》だったのは、あれだけの機材をどうやって手にいれたのか、ってことなんだ。総額でいくらだと思う? 言っとくが、ん千万のケタじゃないぜ。億だろ、たぶん。十七かそこらのガキが手に入れられる額じゃねぇ。いくら金持ちの御曹司だろうと、気前のいいパトロンがいようとな。――これは、聞いたら答えてくれるかな、ナル?」
「……めったにないぼーさんの見せ場を横取りしちゃ、悪いだろ」
 そう言われて、ぼーさんは軽く顔をしかめる。
「言ってくれるな。――もうひとつ。あの事務所は本当にナル本人の持ち物なのか、って問題。さっきも言ったようにナル坊はまだ未成年だ。事務所のあるビルの管理会社、事務所の口座のある銀行、そういうモロモロのものが、所長が未成年で納得《なっとく》するものかね?」
 ……ふうむ。
「それと、さらに不思議に思ったのは、なぜ麻衣《まい》に電話を取らせないのか、ってことだ。手紙の開封もさせない。それどころか、郵便物に触《さわ》らせない。全部リンが選別してから麻衣に渡す。麻衣、事務所に来た郵便物をそのまんまの状態で見たことあるか?」
「……ない」
「本当なら電話番、手紙の仕分け、雑用係の仕事の最《さい》たるもんだ。しかし、それをさせない。なぜだ?」
 ……確かに、言われてみるとおかしい。
「まるで他人を郵便物や電話から遠ざけようとしているみたいじゃねぇか。もしそうだとしたら、なぜか? この原因として考えられるのはひとつしかねぇ。郵便物や電話には非常にしばしば、他人に知られてはならないデータが含まれているんだ。手紙の例でいえば、宛名、消印、リターンアドレス、そういうものの中に知られたくないことが書かれている可能性があるから隠《かく》す、と」
「あ、なるほど」
 あたしは思わず手を叩《たた》いた。
「つまり、偽名《ぎめい》を使っているからね? 『渋谷一也《しぶやかずや》』が偽名だとしたら、手紙には本名が書かれている可能性があるもんねぇ」
 ぼーさんは軽く肩をすくめる。
「ところが、そうもいかねぇんだなぁ。あそこはオフィスだ。基本的にナル個人宛の郵便物は来ねえだろう。来るとしたら、大多数が『渋谷サイキック・リサーチ』宛ての手紙なはずだ」
「あ、そっか」
 ……うーむ。
「じゃ、ひょっとして、外国から郵便物が来るのを隠したい――? ってことはないよねぇ。外国から本が送られてくることあるけど、べつにそれは隠したりしてないもん」
「だろ? このご時勢に、オフィス宛に外国から手紙が来たってだけで、不審《ふしん》に思うようなことか? 電話は? いまどき、国際電話なんか市外通話とおんなじだよ。交換も出やしねえ。かけてくる相手にゃ口どめしておけばすむ」
「だよね」
「それで俺は、つい想像をたくましゅうしちゃうわけ。例《たと》えば、手紙の宛名が違《ちが》っていたら? こいつはどうやら偽名を使ってる。『渋谷サイキック・リサーチ』という事務所名もまた偽名だったとしたら? だとしたら隠す必要があるんじゃないか」

     2

 あたしは首かしげた。
「そんな、まさか。事務所名が違《ちが》ってたら郵便物が届かないでしょ?」
 あたしが言うと、ぼーさんはニンマリ笑う。
「それがそうとも限らなねぇんだな」
 ふに?
「『渋谷サイキック・リサーチ』という事務所名がある。同時に、『SPR』という略称もまた、存在する。違うか?」
「するけど」
「どっちが正式の名前なんだろうな?」
 へっ?
「い……意味がわかんない」
「麻衣《まい》なんかにゃ、難《むずか》しい話だが、事務所を開くからには登記する必要がある。ちゃんと届け出をする必要があるわけだ。その登記の上で使われている事務所名は『渋谷サイキック・リサーチ』と『SPR』のどちらなんだろうか、ってことさ」
「……はぁ」
「郵便物なんてのはな、けっきょくのところどんな名前でだって届くんだよ。より確実にしようと思うなら表札さえ郵便受けに出してりゃいい。そういうもんだ。だからといって、『田中サイキック・リサーチ』として登記してあるものを、『渋谷サイキック・リサーチ』として堂々と看板《かんばん》を出すわけにもいかんだろうが」
「そ、そういうもんかな」
「そういうもんなの。『渋谷サイキック・リサーチ』として登記して『SPR』と看板をあげても、まぁ、さほど問題はないだろう。逆もまたしかりだ。『SPR』として登記して『渋谷サイキック・リサーチ』と看板をあげてもあまり問題はなさそうだよな。横にちょこっと『Shibuya Psychic Research』と書いておけばさ」
「……う、うん」
 難しい話をしてるなぁ。
「だから。どちらが正式な名前なんだろうか、ってこと。――これについても黙秘《もくひ》かい?」
 ぼーさんはナルを見たけど、ナルはまたしても返答なし。
「あのー、あたしやっぱりよく話が見えないんだけどぉ……」
 おそるおそる声をかけると、ぼーさんは、
「つまり、『SPR』は『渋谷サイキック・リサーチ』の略じゃなくて、むしろ『渋谷サイキック・リサーチ』のほうが『SPR』を開いた形なんじゃないかってこと」
 ……??
「さっぱり、わけわかめ」
 ぼーさんは苦笑する。
「結論を言うとだな、あのオフィスの正式な名前は『SPR』なんじゃないかって。電話も手紙も『SPR』宛てに来る。それを麻衣に知られたくなくて、わざと電話や手紙から離していたんじゃないかってことさ」
「ふにー?」
「さらに言えば、『渋谷サイキック・リサーチ』って名前には意味がないんじゃないか。略した言葉が『SPR』になりさえすればよかったんじゃないのか。『佐々木《ささき》サイキック・リサーチ』でも『散歩《さんぽ》サイキック・リサーチ』でも、なんでもよかったんじゃないか。たまたまオフィスのある場所が渋谷だから、渋谷にしたんじゃないかって話。――どうだい?」
 ぼーさんはナルを見る。ナルは薄く笑う。
「仮《かり》にそうだとしても、麻衣から隠《かく》すほどのことじゃないと思うが? 手紙の宛名が『SPR』でも、麻衣は気にしないと思うね」
 ……うん。
「しないよぉ。実際、銀行の振り込み通知も『SPR』になってるし、郵便物の中にもそういうのあるもん」
「『SPR』ならね。でも、ほかの名前が書いてあったら? 『SPR』というのはもちろん略称だ。なんの略称なのか? 例えば『シマウマ、パンダ、ラッコ』だとしよう。もしも事務所の正式な名前が『シマウマ・パンダ・ラッコ』で、その略称が『SPR』だったら? そうして手紙の中に略称ではなく正式な名称のほうできたものがあったとしたら? 宛名が『シマウマ・パンダ・ラッコ』だったら、いくら麻衣でも不審に思うんじゃないのか?」
 ……思う。思うとも。
「さあて、お立ちあい。この『SPR』ってのと、異常に高価な機材、ナルがどうやら日本人じゃないらしい、ってのを混ぜてシャカシャカ振ってやると、ひとつの答えが出るんだよ」
「あ!」
 綾子《あやこ》が声をあげた。ぼーさんはそれにうなずいてやって、
「そう。『Society of Psychical Research』。イギリスにある、もっとも古い権威ある心霊調査団体だ。そうなんじゃねぇの? 『渋谷サイキック・リサーチ』ってのは世を忍ぶ仮《かり》の姿。じつはあのオフィスは『心霊調査協会』の日本支部なんじゃねぇのか?」
「…………」
「もしもナルが『心霊調査協会』の正式な調査員なら、あの機材にも説明がつく。ありゃ『心霊調査協会』の機材さ。ナル個人のものじゃなく、しかもこの仮定にはもうひとつおまけがつく」
「おまけ?」
「そう。ナルが『SPR』の人間だと仮定するとさ、なぜ偽名を使って身分を隠すのか、についても想像がついちゃうんだなぁ」
「ねえ、ねえ、なぜ!?」
 ぼーさんはニンマリする。
「こいつは麻衣に『ナル』と呼ばれて『呼びすて』という言葉をつかった。ここまでの仮定が正しいとして、こいつが日本人じゃないってことにするとだな、これにもひとつの解釈がなりたつ」
「どういう?」
「ヒント。『SPR』。ナル」
「わかんないよぉっ!」
「トムは男の名前だが、愛称でもある。なんの愛称だか知ってるか?」
 はぁ? いきなり英語の試験かぁ?
「……えーと、トーマス?」
「そう。マイクは?」
「マイケル」
「トニー」
「アンソニー」
「よしよし。今度はちょっとむずかしいぞ。ディック」
「えーと……」
 綾子が答える。
「リチャード」
「OK。では――ナル」
 ……え?
 まじまじ見つめるあたしにちょっと笑って、ぼーさんはナルに視線を戻す。
「ナル坊を例《たと》えば、イギリス人だと仮定する。つまり、英語圏《けん》の人間だと。するとだな、例えば兄弟でも、『兄ちゃん』『姉ちゃん』なんて言葉はほとんどつかわない。たいがい名前を呼びすてにする。友人、知人もまたしかり、だ」
「……うん」
「ま、呼びすてにされることに、耐性《たいせい》があるんだな。逆に言えば、『ジョン』って言葉に『ジョンくん』と、『くん』がついているようなもんだ。じゃ、ごく親しい人間が、親しみを込めて名前を呼びすてにしたいような場合には、どうするのか?」
「……それが愛称《あいしょう》、ってやつ?」
 あたしはジョンを見る。ジョンは、はんなりと微笑《わら》った。
「――そういうことだな。『ジョン』なら『ジャック』か。……特別の愛称、特別のミドルネーム。あるいは、その愛称。つまりだ、ナル坊はほとんど初対面に近いお前から、ごく内輪の人間しかつかわない、ある愛称でもっていきなり呼ばれたので言ってしまったんだよ。『呼びすてにした』ってな」
 ――そうか。それで。
「でも、ナルって?」
「教えてやりなよ、ジョン」
 ぼーさんの視線を受けて、ジョンは少し困《こま》ったように口ごもる。
「……Nollでしたら、Oliver……オリヴァーの愛称でおます」
 ……オリヴァー?
「『SPR』のオリヴァーさんだ。ひとりいるだろ。身分を隠さなきゃならないような大物が」
 ……それは……。
「デイビス博士……?」
 誰《だれ》も口を聞かない。あたしがそっと言った言葉は、すとんと沈黙《ちんもく》の中に落ちた。
「そうなの?」
 全員の視線を受けてナルは苦笑する。
「返答の必要があるとは思えないが」
 そう言ったきり、背をもたせかけていたガラス戸からふいと身体《からだ》を離して、玄関に向かう。
「十五分は経過しましたが」
 言われて、安原《やすはら》さんはドアの前から離れる。その脇《わき》を通って、ナルは外へ出ていってしまった。――なんの表情もないまま。

     3

 誰《だれ》もが黙《だま》って出ていくナルを見送ったなか、ぼーさんは不服そうな声を出した。
「ここで、そらとぼけるか、ふつー」
 それに答えたのはリンさんだった。
「ナルは、返答の必要がないと、言ったでしょう」
 リンさんは苦笑するようにちょっとだけ微笑《わら》う。
「こまできたら、返答の必要はないだろう、ということです」
「じゃ、やっぱり……?」
 あたしはリンさんとぼーさんを見比べる。うなずいたのはぼーさんだった。
「の、ようだな」
 ……そうだったのか……。
 ぼーさんはすとん、とその場に座り込む。
「オリバー・デイビスは『SPR』所属の超心理学者、若くして超心理学博士号を取得した気鋭《きえい》の研究者だ。『V』を『ヴ』で表記するなら、オリヴァー・デイビス。普通は、著名な霊能者アンドルー・ジャクソン・デイビスにならって、オリヴァー・デイビス、またはオリバー・デイビスと紹介される。ほとんど表《おもて》舞台に登場しないために、プロフィールははっきりしない。かろうじて、サイコメトリーの能力があり、強いPKの保持者であることが知られている。兄弟がいるのも確かだ。優秀な霊能者で、ユージン・デイビス」
「うん」
「このユージンが極東の島国で消息を断《た》った。デイビス博士は兄弟を探すために来日する。マスコミに知られると大騒ぎだろうさ。ピーター・フルコスが来日したときみたいに、TVだ雑誌だ行方不明者の捜索《そうさく》だなんだと、やかましくつきまとわれるのは目に見えてるる彼は身分を隠《かく》す」
「……そっか」
「するとだ、ナルがここの風景を知っていて地名を知らなかったというのも、問題なく説明がつく。ナル坊はサイコメトリーしたんだ。ヴィジョンとして、兄貴がここに投げ込まれたのは目撃したが、それ以上の情報がなかった。それで、実際に尋ねてみるしかなかったわけだ」
「じゃあ、いつかの調査で真砂子《まさこ》の櫛《くし》を持ってたのも?」
「そういうことだろうな。真砂子がどうしているか、平たく言やぁ、生きているのか死んでいるのか、それを確認するために櫛を持ってたんだろ」
 ぼーさんはちょっと申し訳なさそうに頭をかいて、
「――真砂子ちゃんにゃ、残念なことだろうが」
 真砂子はでも、少し影のある微笑《わら》い方をしただけだ。
「そういうことだというのは、存じあげてましたわ」
「しかし、真砂子ちゃんはなんで知っていたんだ?」
「あたくし、ビデオを見ましたから」
 ……ビデオ?
「アメリカの『ASPR』に招かれていったとき、そこでビデオを見たんですわ」
 ぼーさんが身を乗り出した。
「ビデオってまさか……あの有名な?」
「ええ」
 あたしはぼーさんのシャツを引っ張った。話が見えないよー。
「デイビス博士が以前、PKの実験をしたことがある。それのビデオがあるんだ。前に話をしたろう? 非情に厳密な実験で……」
「五十キロのアルミニウムの塊《かたまり》を壁にたたきつけた?」
「そう。そのビデオってのが、門外不出のシロモノで、大きな心霊関係の研究所、そういうところでなきゃ手に入らない」
「へえぇ……」
「ちょっと印象的なビデオでしたから、あたくし、記憶に残っていたんですわ。ですから最初に会ったとき、どこかで見た顔だと思って……」
 あ、そうか……。
「あの事件のあと、思い出したのですわ。それでナルに言ったら、秘密にしておいてほしいと……」
 あたしはチラリと真砂子をねめつける。
「あんた、さてはそれをネタに脅《おど》したな」
「あら、なんのことですかしら」
 てめー、そういうことか。
 ぱちぱち、と気のない拍手をしたのは綾子《あやこ》だ。
「なんにしてもスッキリしたわ。これでイギリスでもどこでも、勝手に帰ってちょうだい、ってなもんよ。――結構やるじゃない、破戒僧《はかいそう》」
「やかましい。俺《おれ》の頭はおまえのとちがって飾りじゃないの」
「ま、飾る価値はないわねぇ」
「そりゃ、おめーの趣味が悪いんだ」
 あー、また始まった。それにはかまわず、安原《やすはら》さんが、
「滝川《たきがわ》さんは、見てないようでけっこう細かいところまで見てますからねぇ」
 うん。それは言える。観察眼が鋭《するど》いといえば誉《ほ》め言葉だけど、たんに重箱のスミをつつくようにうるさい、という言い方もできるよな。
「最初に滝川さんがこれを言い出したときは、暑さでボケたのかと思いましたが」
「どーせ、俺は年寄りだよっ」
 それは否定できない事実だな。
 にしても、とあたしはぼーさんと安原さん、それからジョンを見回す。
「なーんかツルんでヒソヒソやってると思ったら、こういう話をしてたんだなぁ?」
 ぼーさんはちょっと顔をしかめて笑う。
「ヒマでほかにすることがなかったんだよ」
 そう言ってからちょっと真顔になって、
「じつを言うと、おや、と思ったのはこないだナル坊が倒れてからさ」
「ふに?」
「非常識な気功《きこう》を見せてくれたろーが?」
「うん」
「俺も気功ってのはよくは知らねーが、ただ、あれが聞こうとしても非常識なのはわからぁ。スタイルも気功にしちゃ、変わってる」
「……うん。似てるけど、違《ちが》うもんだって、リンさんがゆってたよね」
「それでだ。ありゃPKなんじゃねぇかと思ったわけよ。もともと、気功=PK説ってのはあるわけだし」
 ふむ。
「しかし、PKにしろなんにしろ、ありゃあ破格だ。そう思ったときにだな、破格のPKっつーので博士のことを思い出したわけ」
「なるほど」
「考えてみると、妙にはまることが多いんだよな。以前、おまえが見たとかいうスプーン曲げにしてもそうだ。俺たちが見たのはトリックを使ったやつだったが、おまえが見たときにはナル坊はスプーンの首をちぎってる。それが本当だとすると、りっぱなPKだ」
「うん。そだね」
「しかもナル坊は情報を集めるのが上手《うま》かったりするんだな。妙にカンが冴《さ》えてたり」
ふに?」
「あれはどの事件だっけか。ほら、人形の出てきた事件で」
「ミニー?」
「そう。あの時も妙に自信ありげに、人形には問題ない、なんて言ってただろ? どっかの学校の事件でも教室を歩きながら、唐突に『降霊会《こうれいかい》をしなかったか』だの」
そ、そんなことがあったっけ?
「真砂子の櫛《くし》とか、な。そういうのを考え合わせていくと、どうもサイコメトリーもしくはポスト・コグニションの能力者くさい。おまけに、いつぞやの『偽《にせ》デイビス』調査。なんであんなことをやる必要があるわけ? それも、ナルと森さんてお嬢さんが『SPR』の関係者ならなんとなく納得《なっとく》がいくじゃねえの。――ま、そんなふうに、いったん怪《あや》しいと思うと、あれもこれも……ってわけ」
「へえぇ」
 ただ、と言ってぼーさんは頭をかく。
「どうしてもナルってのがなんの愛称なのかわからなくてな。辞書を借りて引いてみても、載《の》ってねえし。そんで少年とジョンに聞いてみたんだ」
 安原さんが神妙《しんみょう》に聞く。
「ブラウンさんから『ナル』というのは、『オリヴァー』の愛称だと聞いて、その気になって考えてみると、怪《あや》しいことだらけなんですよねぇ。僕らもよくもまぁ、今日までひっかかってきた、というか。――この件については、谷山《たにやま》さんを恨《うら》みます」
「あ、あたしぃ?」
「そう」
 きっぱり言って、安原さんはあたしに指を突《つ》きつける。
「谷山さんが悪いんですよ。『ナルシストのナルちゃん』っていうのが、あまりにはまってたんで、さして疑問にも思わず、うっかりマに受けちゃったんですからね」
 ああああ……。それは、失礼をば……。


    4

 くつくつ笑って、ぼーさんは静かに控《ひか》えているリンさんに目をやる。
「――そういうことで問題ないのかな、リン?」
 リンさんは、またも苦笑ぎみだ。
「なさそうですね」
「ひとつ聞きたいんだが、なんだって事務所をかまえる必要があったんだ?」
 ……あたしも、それをぜひ聞きたい。
 リンさんは少し思案するようにしてから、
「ジーン……ユージンを探そうにも、手がかりはほとんどない状態で……」
「ジーン? ユージンの愛称?」
「はい。彼を探すのに時間がかかることは目に見えていました。まさかイギリスから通《かよ》うわけにはいきませんし、どこかに足場を確保しておく必要があったわけですが、どんな事情にしても資金の問題というものがつきまといます」
「日本は物価が高いからなー」
「個人的に滞在するのには、限度があります。それで各方面を調整して、とりあえず日本における心霊研究の現状と心霊現象を調査するという名目で、分室をおくことにしたんです」
「なるほど、依頼料が安いわけだよなぁ。商売っけがないのもあたりまえ、ってとこか。『SPR』の分室じゃ商売はできんもんなぁ」
「そういうことです」
「じゃ、分室ではナル坊がリンの上司?」
「はい。一応、ナルが分室長ですから」
 へえぇ。
「ナル坊のほうが若いのに」
「年齢は関係ありません。ナルのほうが業績もありますし、研究員としては古株《ふるかぶ》ですから」
「――ついでに、もうひとつ質問をしても?」
「私にお答えできることでしたら」
「国籍はイギリス?」
「ナルですか? そうです」
 ぼーさんはちょっとジョンに目をやる。
「ナルってのは、アメリカ風《ふう》の発音だと聞いたんだが」
「ナルは八つの頃までアメリカにいましたので」
「じゃ、ご両親は日系人?」
「デイビス教授は生粋《きっすい》のイギリス人ですね。ナルとユージンはそもそも養子ですから」
 ――え?
 あたしはリンさんの表情のない顔を改めて見直した。
「孤児だったんです、ふたりは。それをデイビス教授が養子になさった」
 ……そうか。ナルも孤児なのか。
 もっとも、あたしと違《ちが》ってナルにはお兄さんがいたわけだけど。でも……、そのお兄さんも死んだ……。
「そもそも、ナルという呼び名はユージンだけが使っていたんです」
 ちょっとぼんやりしてたのはあたしだけではない。
「じゃあ、お兄さんの遺体が見つかったら、ナルはイギリスに帰っちゃうんだ」
 あたしはそうつぶやいてみる。べつに返事を期待したわけではない。
 ……だから、真砂子《まさこ》が言ったように、もう会えない……。
「その件については、まだ何も聞いていませんが」
「でも、オフィスも閉めるんでしょ?」
「あれはユージンを探すために便宜上《べんぎじょう》あるものですから。滞在を援助してくれている方々にもそのように説明してありますし」
「お兄さんが見つかったら、日本にいる理由もないもんねぇ」
 イギリスにはご両親だっているんだし、家だってあるわけだし。
「申し訳ありませんが、私ではなんとも――」
 リンさんはちょっと何か言いそうになって、けっきょく口をつぐんだ。すぐに、改めてあたしたちを見渡す。
「こちらから、ひとつお願いをしてもよろしいでしょうか」
 どうぞ、というぼーさんの声にリンさんは軽く会釈《えしゃく》をする。
「どうかこのことは秘密にしておいていただきたいのです」
 了解、と言ったのはぼーさんで、でも、と抗議の声をあげたのは綾子《あやこ》だ。
「ねぇ、そんなに神経質になるようなこと?」
「日本のマスコミは貪欲《どんよく》ですから。節操も節度もない。面白《おもしろ》おかしく脚色されて愉快《ゆかい》なはずがないでしょう」
「それは、そうだけどぉ」
 それに、とリンさんは床を見る。
「サイコメトリーの能力者は、おそらくすべてのサイ能力者の中でもっとも不自由です。マスコミはすぐに飽《あ》きるでしょうが、飽きることのない人たちもいる」
「……?」
「日本に来る前、いったいナル宛《あて》に一日何通の手紙が来ていたかわかりますか?」
 ……ファンレターかな?
「多いと五十、少なくても二十です。その全部が救済を求める手紙です。失踪《しっそう》した近親者を探してほしいと」
「あ……」
「探して生きていれば問題はないのですが、死んでいることも多い。手紙をよこす人はほとんどが、どこかで生きていてほしいと切実に願っているものです。そういう人たちに死んでいると伝えても、恨《うら》まれこそすれ感謝はされない」
「そうかもしれないね……」
 そりゃ、マスコミから逃げ回るはずだわ。
「しかもナルは優秀すぎる。探している人物が死んでいたとしても、それを単に情報として知るだけならよいのですが。対象との同調が激《はげ》しいと、あたかも自分の体験のように感じるらしいので」
 綾子と真砂子が同時にあたしをふりかえる。
「それって、いつか麻衣《まい》が夢に見た……」
 ああいうことかな?
「ひどい場合には実際にケガをする場合もあるのです。暗示効果の一種だと思うのですが」
「ケガ?」
 ええ、とリンさんはうなずく。
「透視によって同調している人物がケガをした、同じ場所にひどい痣《あざ》を作ったり、強い麻痺《まひ》が出たりする……。ですからナルはよほどの場合でないとサイコメトリーをしません。手紙も全部、開封せずに返送していました」
 ……へえぇ。たいへんなんだなぁ。
「それに……」
 言いかけてリンさんは首を振った。
「とにかく、くれぐれもお願いします」


十三章 八月十四日 午後四時-午後五時


     1

 外にはあいかわらず、白々《しらじら》しいくらい明るい陽射《ひざ》しがあふれていた。
 あたしはその後、リンさんがナルを追って外に出てしまったのを契機《けいき》に、なんとなくひとりで散歩に出て、てくてく林を歩いた。
 まだまだ陽射しは明るいのに、もうヒグラシの声がしている。声が寂《さび》しくて気分が滅入《めい》る。なんだかモヤモヤしたものが胸の中に沈んでいる気がした。
 それがなんなのか、自分でもよくわからなくて、よけいにどんどん滅入ってしまう。
 ……落ち込んでるなぁ。どうしてだろう。
 もっと意気揚々《いきようよう》としていいのに。長い間《あいだ》気になっていたこともわかったし。
 ……何がそんなに気持ちに引っかかっているんだろう。
 そんなことを考えながらでたらめに林を歩いて、あたしは前に人影を見つけた。木にもたれるようにして立っている姿。
 その姿を見たとたんに、すとんと納得してしまう。
 そうか、あたし……。
「湖を見に行ったんだと思った」
 そう声をかけると、まっすぐあたしのほうを見ていた漆黒《しっこく》の目がすっと逸《そ》らされる。陽射しの加減か、ちょっと陰《かげ》りのある表情に見えた。
「……そだ」
 つぶやいて、あたしはナルがもたれている木のところまで歩く。
「ごめんね。気安く『ナルちゃん』なんて呼んで」
「なぜ?」
 ふりむいて問いかけてきた目の色が本当に深い。
「お兄さんだけの、呼び名だったんでしょ? あたし、ぜんぜん事情を知らなかったから……」
 もっとも、リンさんだってそう呼んでるんだから、もうそんなに内輪《うちわ》の呼び方でもないんだろうけど。
「それは、うんと小さい頃の話」
「ふぅん……」
 ナルがもたれてる細い木の、反対側に背中をもたせかけて。
「……ナルってすごいひとだったんだねぇ」
 つぶやいた声に返答はない。
「なんか、距離を感じたとゆーか。……へへ。馬鹿《ばか》だ馬鹿だって言われるわけよねー。ナルに比べたらあたしなんて、本当に馬鹿だし」
 ……きっと、これが落ち込みの原因。
「じきに、イギリスに帰っちゃうんだね」
 そこには家族がいて、ナル自身の生活があって。
「でもって、あたしたちに会う前の生活に戻っちゃうわけだ。……全然、どういう生活なのか想像つかないけど。なんか、全然住んでる世界が違《ちが》うんだもんなー」
「そんなことは、ない」
「そう? そうかな……」
「単なる学者馬鹿だから」
 ナルがそういうふうに自分を評するのは初めてなので、あたしは思わず背後をふりかえる。細い幹《みき》を隔《へだ》てて見える、背中。
 すぐにあたしは視線を戻す。
「ナルも孤児だったんだね」
「麻衣《まい》とは事情が違う。……兄弟もいたし、養父母にも恵まれたし」
「そっか。……お兄さんはどんなひと?」
「さあ」
 ……やっぱり答えてくれないわけね。
「ばったり会えてよかった。ちょっと謝《あやま》っておきたかったし」
 あたしが言うと、背後から静かな声がする。
「探してた」
「え?」
「麻衣に少し言いたいことがあって、会えるといいなと思ってた」
「……何を?」
 背後から聞こえる声だけ。
「……ひょっとしたら、もう会うこともないかもしれないから、言っておきたいことがあったんだけど」
「だけど?」
「やっぱり、やめておく……」
 そりゃーないよ、と心の中でつぶやいた。気をもたせておいて。
 言いなさいよ、と背後をふりかえりかけて、あたしは下草《したぐさ》を踏む足音を聞いた。それで思わず視線を音のほうへ向けたわけだけど。
「……は?」

     2

 ……なに、これ????
 あたしはちょっとの間、頭が真っ白になった気がした。すぐに我に返って、背後をふりかえる。そこにもう、人影はない。
 ――あるはずがない。その人物は前方斜《なな》め十五度から近づいてくるんだから。「はぁ?」
 文字どおり狐《きつね》につままれた気分。
「どうした?」
 前方斜め十五度から近づいてきた人物は足を止める。
 漆黒《しっこく》の髪と漆黒の目。黒一色の姿。
「……ナル?」
 彼は怪訝《けげん》そうにする。怪訝なのはこっちのほうだ。
「本当に、ナルよねぇ……?」
「何を言ってるんだ。起きてるか?」
「うん……自信ない」
 どうして? 何が起こったわけ?
「――今までいたのは誰《だれ》なの?」
 つぶやいた声に、ナルが少し首を傾《かた》むけた。
「誰が、いたって?」
 あたしは誰もいなくなった背後を指さす。
「ナル。今まで話してたのに。確かに」
 そうだとも。あれは夢なんかじゃなかった。立ったまま寝られるほど、あたしは器用じゃない。
「すぐ、そばに。あれは、なんだったわけ?」
「寝とぼけたな」
 軽蔑《けいべつ》も露《あらわ》な声に、あたしはカッとなる。
「違うっ! いつもの夢みたいだったけど、絶対夢じゃなかったもん!」
「……いつもの夢?」
 あ。まずった……!
 ナルは止めていた足を動かして、一歩だけ近づいてくる。
「なんだ、それは?」
 ナルの真剣な顔。それであたしもごまかすことができない。
「た、単なる夢……」
 さらに踏み出される一歩の距離。もう、手を伸ばすと届くほどの距離しかない。あたしの背中にはあいかわらず細い幹が当たっていて、それでなんだか追いつめられる気分
「だから、どんな?」
「ナルには関係ない」
「あまり関係なそうには聞こえかったが?」
 瞳の色が深い。そのうえなんだかすごく不穏《ふおん》だ。
「僕がいた、とか?」
「か、関係ないでしょ」
「関係なくはないと思うが」
「そんなに突っかかること、ないじゃない」
「そんなに隠すこともないだろう?」
「隠してなんか……」
 ……えーい! もう言っちゃうからね! どーせあとなんかないんだいっ。笑われて一発横っ面《つら》を張り倒して、そんで終わればせいせいするってもんさっ。
「ナルの……夢だよっ!」
 ……言った……。
 顔が真っ赤になってるのが自分でもわかる。なのになのに、対する相手は、ただ怪訝《けげん》そうにしただけだ。この、朴念仁《ぼくねんじん》がっ!
「――僕の?」
「そう。ナルの。あたしの勝手な夢なの。願望かもしんない。優《やさ》しいナルの夢」 実際のあんたは全然優しくないけどね、と、これは精いっぱいの言外《げんがい》の皮肉。
「優しい――?」
「そ。優しそうに微笑《わら》ってるの。でもって優しい言葉をかけてくれるの」
 あれが、あんたの無意識だなんて、絶対に認めてやらない。
 ナルは目を見開いたまま、あたしの顔に視線を注ぐ。
「……今まで話をしていたって?」
「そーだよ。悪い?」
 なんだってこんなケンカ腰になるのやら。
「――どんな?」
「他愛もないこと。白日夢《はくじつむ》ってやつかな。――もちろん、夢だわ。誰かさんは微笑いもしなけりゃ、他愛もない話につきあってくれもしないもんね。こき使う用がなきゃ、あたしを探すことだって絶対にないしっ」
 これじゃ、完璧《かんぺき》な告白ですな。はっはっは。
 さあ、いくらでも笑っていただきましょう。右手は早くも、張り手の準備。てめーみたいな冷血鉄面皮《てつめんぴ》。どーせあたしのオトメゴコロなんてわかりゃしないんだ。
「……それは、どういうとだ?」
 ナルは呆然《ぼうぜん》としているように見えた。
 問われてあたしだって呆《あき》れるしかない。
 どういうことだって? そんなの、見え見えじゃない。今日まで夢の中にコイツが出てきたことをひた隠《かく》しにしていたのは、どうしてだと思うてか。
「バッカじゃないの!? わからないの!?」
「理解、できない」
 あああああ、もーあったま、来たっ。
「えええ、そうでしょうとも。わかってたわよ、あんたが血も涙もない冷血漢だってのは。そんでもね、見えないところでちったー和《なご》やかなことを考えてないか期待するのが人情ってもんじゃない。夢の中にあんたが出てきてみれば、いつだって微笑《わら》ってて、そんでもって優しくて、あたしなんかのことを気にかけてくれてるふうで。――そりゃあ、そんなのあたしの単なる願望でしょーよ。そんでもそういう夢を見れば、じつは心の底でそういう血も涙もある人間なんじゃないかと思うじゃない。それが続けば、魂《たましい》だけがぽんと抜け出して、会いにきてくれるんじゃないかと思うのがオトメゴコロってもんよっ!」
 さー、これでそのトンチキな頭にもわかったか。
「……僕は、対外離脱《たいがいりだつ》できない」
 ……は!?
「それは、できない。そういう才能には恵まれてない」
「わかってるわよ。どーせ、そうでしょうとも。あんなのあたしの願望だよっ」
「……違《ちが》う」
「笑いたけりゃ、笑えば……え?」
 ふと我に返ってみると、あたしが怒鳴《どな》りつけている相手は、ただでさえ白い顔に血の気がまったくない。
「それは……いつから?」
 妙に気分をくじかれて、あたしはぽかんとしてしまう。
「いつからって、夢が? 最初から……」
「……僕じゃない」
 ……はぁ?
「それは、僕じゃない。……ジーンだ……」
 え?
「誰?」
 彼は目眩《目眩》に耐えるように白い手を額《ひたい》に当てる。
「ユージーン」
「ち……違うよっ! いくら兄弟だって、わかるはずだもん! 絶対あれはナルだったもんっ!」
「いや。ジーンなんだ」
「だって!」
 見間違えたりしない。ナルのことだから。
「双子《ふたご》なんだ」
 ……え?
「無表情《むひょうじょう》にしてれば、誰ひとり見分けられなかった。――双子の兄弟なんだ」
 ……そ……そんな……。
「では……ジーンはまだこの世をさまよっていたんだ……」
 そういうナルの目もまた、どこか彼方《かなた》をさまよっているように見えた。

     3

「……お兄さん? あれが?」
 彼は、だって。
 ――死んだ。
 それでは。
「あれは……お兄さんの……」
 ぱらぱらと記憶の断片がひび割れて落ちていく。
 ――どうしてわからなかったの。
 考えてみれば、すごく単純なことだ。
 夢で会うなは微笑《わら》う。現実のナルは微笑《わら》わない。
 ――ぜんぜん別人だったのに。
 性格もしゃべり方も、姿以外はぜんぜん別人だったじゃない……!
 別人のようだ、と思ったことが確かにある。それもそのはずだ。まったく違うひとだったんだ。あたしがそれを気づかなかっただけ――。
 同じ顔だから。
 同じ声だから。
 それをナルだと思いこんでいた。
「この世に思い残すことがあるのか……。そうだろうな」
 低いなの声が悲しい。
「……もう会うこともないかもしれない、って」
 つぶやくと、ナルが視線を向ける。
「さっき、そう言ってた」
「うん。死体が見つかれば……」
 それきり、ナルは口を閉ざす。
 あたしにも、かける言葉なんかあろうはずがなかった。

「麻衣《まい》。聞きたいことがあるんだが」
 しばらく経《た》ってから、ナルが声を出した。
「……なに?」
「いつだったか、首を裂《さ》かれた過去視《かこし》をしたろう。あのとき、何か奇妙な点はなかったか?」
「奇妙な点?」
 ナルは少し言葉を探すようにする。
「僕はあの屋敷で、置いてあった小物に対してサイコメトリーを行った。壷《つぼ》やスタンド、そういうものだ。その中で見たヴィジョンにあれはひどく似ている」
「……え?」
「細部まで、ほとんど同じと言っていい。麻衣が夢に見る前だ」
「……それ、どういうこと?」
 ナルはちょっと首を振る。
「質問の角度を変える。麻衣の夢の中で、ユージーンはどういう役割を果たしていた?」 ――役割。
「……よくわからないけど、夢の方向を示した、って言われたことがある。あとは、忠告と、いろんなことを教えてくれた。今回、トランス状態に入る方法を教えてくれたのもお兄さんなの」
「呼吸に注意をむけながら、全身から力を抜いていく方法?」
「うん」
 ナルは溜《た》め息《いき》をひとつ、落とした。
「何をやっているんだ、あの馬鹿《ばか》は……」
 馬鹿、って。――兄弟に対してもナルはナルだなぁ。
「仮《かり》にも霊媒《れいばい》が道に迷《まよ》うなんて。とっくに向こう側だと思っていれば」
「ナルのことが心配だったんじゃないかなぁ」
 そう言ったのはなんとなくだったんだけど。
 ナルは不快そうに顔をしかめる。
「ジーンに心配されるほど落ちぶれてない」
 ――結論。こいつと兄弟をやってられたんだから、お兄さんの性格は限りなくよかったに違いない。
「でも? どういうこと?」
「要は、あの馬鹿は麻衣の指導霊を気取っているわけだ。たぶん麻衣は、先天的に霊的な才能がある。それを見込んでだか、そばについて才能を引き延ばす役をかって出たつもりなんだろう。まったく……」
 こういう言い方をされたんじゃ、お兄さんも浮かばれないよなぁ。
「トランス状態に入る方法も、ジーンがよく使っていた手。霊を光として認知するのも、その時に風景が透《す》けて見えるのもジーンのくせ。そのうえ勝手にラインをつないで」
「ライン?」
 ナルは本当に不快そうだ。
「僕とジーンの間にはホット・ラインがあったんだ。意識と意識の間に直通の」
「テレパシー?」
 ナルはうなずく。
「もっとも、兄弟以外の相手にはまったく役にたたなかったけど。それを麻衣に中継したな。どうりで同じヴィジョンを麻衣も見るわけだ」
 ……へえぇ。
「さっさと向こう側へ渡ればいいものを」
 それはとても理解できる気分だったので、ナルのことを冷血漢とは思わないことにした。あたしだって、お父さんやお母さんが、いつまでもこちら側に残《のこ》っていたら辛《つら》い。
「本当にナルが心配だったんだね」
「余計なお世話というやつだ」
「まぁまぁ。ユージンがいなくなって、霊を見る能力者がいなくなったわけでしょ? それでなんとかあたしを、使い物になるよう指導してくれたんだよ」
 優《やさ》しいお兄さんじゃないか。粗末にしたらバチがあたるぞ。
「あいつは、おせっかいなんだ」
「親切、って言うんだよ、そういうのを」
「バカとも言う」
 ……やれやれ。

     4

「お兄さんはどうして日本に来たの?」
 ひょっとしたら答えてもらえないかも、と思ったんだけど。
「降霊をしてほしいという依頼があって。日本には古いスタイルの霊媒《れいば》が各地にいるから、ついでにそれを調べてくるという話だった」
「ふうん……」
 いまさらだけど、お兄さんは霊媒だったんだ。それも、有名な。
「お兄さんもいっしょにそういう研究をしてたんだね」
「ああ」
「一緒《いっしょ》にゴースト・ハントしてたとか?」
「してた」
「そっか……」
 きっとナルは調査の間、もどかしかったろう。ここにお兄さんがいれば、って。真砂子《まさこ》は特に何も見えないことがあるし、あたしはミソッカス霊能者だし。お兄さんなら即座に状況を把握《はあく》できて、必要とあればどんどん浄霊《じょうれい》できて……。
 あたしは教えてもらった浄霊方法を思いだした。あれを「簡単だよ」と言ってのけた彼は、きっと根っから優《やさ》しい、温かい人だったんだろうな。
 ……そして、死んだ。
 今もダムの底に眠っている――。
「お兄さんが……その、ここにいるってどうしてわかったの? やっぱサイコメトリー?」
 ナルはうなずいた。
「それって絶対? まちがいない?」
「たぶん」
「……どうして亡くなったのか聞いてもいい?」
 ナルは少し考え込むように黙《だま》っている。それから、
「ジーンが日本に発《た》って、滞在予定の半分をすぎたぐらいの頃だったかな。服を借りたらいきなり同調して」
「同調?」
「サイコメトリーする対象の人物と同化してしまうこと」
「いつかの夢みたいに?」
「そう」
 あんな経験を何度もするんじゃたまんないよなぁ。たしかに、サイコメトリーするのを嫌《いや》がるはずだ。
「突然? 自分から同調しようって何かをしたわけじゃなく?」
「そういう意志は必ずしも必要じゃない。拒絶するのには意志が必要だけど」
「へぇ……」
「最初に見えたのは山かな。昼間の山で、道路で、そこを歩いていると、背後から車が来るのが聞こえた。ふりかえると、カーブを曲がった車が外側に膨《ふく》らんで走ってくるのが見える。まっすぐ突っ込んできて、衝撃があって、倒れて。アスファルトに伏《ふ》せていると、停《と》まった車から人が降りてくる」
「……うん」
「女だ。膝下《ひざした》しか見えなかったけど。彼女は狼狽《ろうばい》して、悲鳴をあげたあげく、車に戻る。すぐに車が動く音がして、それが背後から近づいてくる……」 あたしは苦いものを呑《の》み下した。それでは、その女の人は、ジーンにとどめを刺したんだ。たしかに……殺された、と言っていい……。
「そこからはヴィジョンにグリーンのハレーションが起こる。対象が死《し》んだときの癖《くせ》なんだ。地面を引きずられて、車のトランクに積まれる。どこかガレージみたいな場所で銀色のシートに包まれる。それがボートの上から湖の中に投げ込まれる……」「ひどい……」
「そもそも事故にあうところがウカツで間抜《まぬ》けなんだ」
 ……また、そういう言い方をする……。ほんとにもー。
「早く見つかるといいね」
 きっとそれでさまよっているんだろうから。こんなに遠くで二度と家族にも会えなくなってしまって。冷たい水の底で、ひとりぼっちで。
 ……早く帰りたいだろう。自分がいるべき場所に。
 ナルは何か言いかけた。言いかけてけっきょく口をつぐみ、かわりにひとつ溜《た》め息《いき》をついた。
 その時だった。遠くから声が聞こえた。
「なーんだ、こんなところにいたの?」
 それは女のひとの声で、綾子《あやこ》の声ではなく、真砂子の声でもなく、でも確かに聞き覚えのある声で。
 ふりかえると林の間に手を振っている女の人が見えた。
 ……あのひとは。
「あら、谷山《たにやま》さん。お元気?」
 ぱあっと明るい笑顔が懐《なつ》かしい。
 いつか会った、ナルとリンさんの不思議《ふしぎ》な知り合い。
「まどか」
「……森さん!?」


十四章 八月十四日 午後五時-午後六時


     1

 どうして、こんなところに森さんが?
 それはすぐにわかった。森さんのほうへ小走りに行くナルのあとをノコノコついていって、あたしは少し離れたところにいる三人の人影を見つけた。
 ――あれは。
 リンさんと話をしているふたりの人物。中年の男性と女性。しかも。
 あたしは思わず立ち止まってしまう。
 が、外人さんだぁ……。
 ――どうして、こんなところに外人さんが?
 その答えは漠然《ばくぜん》とわかった気がしたし、実際すぐに確定した。ナルが
まっすぐにふたりに駆け寄っていったので。
 女のひとはナルを抱きしめる。男のひともナルの肩に腕をまわした。
 そんな恐れを知らないことができる人間が誰《だれ》だか、わかりきってる。
「おひさしぶり」
 いつの間《ま》にか森さんがあたしのそばに来ていた。
「おひさしぶりです。――森さん、あのひとたちがナルのお父さんとお母さん……?」
 ふんわり微笑《わら》ってから森さんは、同じようにいつの間にかあたしのそばに来ていたリンさんを見る。
「――紹介してもいいのかな?」
 彼女の問いにリンさんはうなずく。
「そう。――谷山《たにやま》さん、紹介するわ。少し、あとでね」
 そうか。リンさんがいつだったか、「すぐに向こうを発《た》つそうです」と言っていたのは、ご両親のことだったのか……。
 イギリスから日本のここまで、どれくらいの時間がかかる旅なのか、あたしにはわからない。それでもきっと、とても辛《つら》い旅だったろうと思う。消息を断《た》った息子の遺体《いたい》が眠っているだろう場所。本当だったら、こんな遠い異国《いこくすに別れて住むはずもなかった、もうひとりの息子との再会。
「皆さんはお元気?」
「はい」
「そっか。じゃ、ちょっとご挨拶《あいさつ》にいこうかな」
 森さんが視線をちらと横に向けるので、あたしも同じ方向を見る。お母さんは泣いているようだった。
「邪魔《じゃま》はしないでおこう」
「そうですね」

 バンガローに森さんと戻ると、みんなはまだそこでゴロゴロしていた。
「森さん」
「あら」
「おひさしぶりです」
 みんなの声に森さんは笑って、ひとしきり再会のご挨拶《あいさつ》。
「なんでまた、いきなり」
 そう聞くぼーさんの声に、ナルのご両親を案内してきた事情の説明があって。雑談に花を咲かせるみんなを尻目《しりめ》に、あたしは真砂子《まさこ》を脇《わき》に引っ張った。
「ねぇ、ねぇ」
「どうしたんですの?」
「いつか、真砂子が捕まったときに、ナルが励《はげ》ましにいったことがあったでしょ?」
 真砂子はちょっと周囲をうかがうようにしてから声をひそめる。
「……ええ。それが?」
「あれ、ナルじゃないの、知ってた?」
「ナルでしたわ」
「違《ちが》うの。お兄さんだって」
「そんなはずありませんわ。だってナルでしたもの」
 うん。そう言ってしまう気持ちはわかる。
「違う。お兄さんなの。……双子《ふたご》の」
「双子!?」
 真砂子が声をあげて、背後の声がぴたりと止んだ。
「誰が双子なんですか?」
 聞いてきたのは安原《やすはら》さんで、笑ったのは森さんだ。
「ああ、ナルとジーンね」
「お兄さん、って、双子のお兄さんなんですか」
「そうよ。一卵性双生児ってやつ」
 ひえぇ、と安原さんはつぶやいて、
「……あんな顔がふたつもあったのか。みものだっただろうな」
 た、確かに。
「双子っていっても、そんなに似てない双子だっているでしょ?」
 綾子《あやこ》の言葉に森さんは軽く笑った。
「似てたわよ。双子って、横に並べてみると意外に似てないものだけど、あのふたりは本当に似てたわねぇ。あれくらい似てる双子も珍《めずら》しいんじゃないかしら」
 双子の兄弟がいるって、どういう気分なんだろう。あたしにはよくわからないけど、何か普通の兄弟よりはずっと親密な感じがする。
「ナルはお兄さんが死んで……それであんな性格になっちゃったのかなぁ」
 それはちょっと納得《なっとく》できることだという気がしたのだけど。
「ううん」
 森さんは驚いたような顔をした。
「ナルは昔からああだったわよ」
 ……げっ。
「む、昔っから? べつに暗い過去を引きずってて世をすねてるとか、そういうわけではなく?」
「違うと思うけど。ナルは小さい頃からああだったって。ジーンが言うんだから、間違いないと思うわ」
 ……うーみゅ。
 森さんはちょっと何かを思い出すように天井《てんじょう》を見る。
「そうねぇ……。本当にあれだけ外見が似てる子供も珍しいけど、あれだけ性格の違う兄弟も珍しいと思うわよ」
「違うというと……」
「正反対」
 げげ。一方がアレで、その反対、というと。
 優《やさ》しくて人当たりがよくて穏和《おんわ》で謙虚《けんきょ》で……。
「て、天使みたいなひと?」
「それもちょっと違うな」
 森さんは笑う。
「……実際には普通の性格だったんでしょうね。双子のかたわれがああだったから、ものすごくできた子に見えたけど」
 まぁ、それはそうだ。
「ナルと違って明るいタイプね。ひとつなっこかったし」
 ふむふむ。
「やんちゃなところもあってね。よく、入れ替わって周りの人をかついだり、ナルはそういう遊びをしないから、ああいうのはジーンの言い出したことなんじゃないかな」
「……け、けっこう、意外な性格」
 ナルと同じ顔でそういうことをしてたんだと思うと、頭痛いぞっ。
「谷山《たにやま》さんに少しだけ似てたわね」
 森さんはそう言って温《あたた》かい笑みを浮かべた。
 ……え?
「あたしにぃ?」
「うん。もちょっと印象として、もの静かなタイプだったけどね」
 すみませんね。あたしはうるさいやつで。
「リンもそう言ってた。似てるって」
「……はぁ」
「谷山さんは、すぐ依頼人に同情するでしょ? 関係者にのめりこんで一緒《いっしょ》になって泣いたり笑ったり?」
 ……うう。そおいう性格なんです。
「そういうところがね、似てるって。だから、みんな彼には心を開いた……」
「完璧《かんぺき》じゃないですか」
 言ったのは安原さんだ。
「あの外見で、性格がよかったら恐《こわ》いものないですよね」
 森さんはちょっと苦《にが》い笑いを浮かべる。
「そういう子は、えてして長生きしない……。そういうものなのよね」
 すこし寂《さび》しい色の沈黙《ちんもく》が降りる。陽射《ひざ》しは大きく傾《かた》いて、部屋の中は何もかにもに影ができていた。

     2

「きっと、なんのかんの言いながら、仲、良かったんだろうなぁ」
 誰《だれ》にともなく言うと、やはり森さんが苦笑した。
「んー。それはどうかなぁ。確かに、ナルといちばん親しいのはジーンだったけどね」
「兄弟ゲンカなんかは」
「しょっちゅうよ。といっても、たいがいナルが一方的に怒《おこ》るんだけど」
 ありゃりゃ。
「……そうね、ナルはジーンが苦手《にがて》だったみたい」
「兄弟なのに?」
「うん。ナルはね、基本的に他人からかまわれるのが好きじゃないのよ。兄弟だろうと両親だろうと、ほっといてほしいタイプなんじゃないかな。あの子は研究さえしてればご機嫌《きげん》で、それ以外のことは邪魔《じゃま》だとしか思ってないみただから」
 うーむ……。
「でも、他人ならほっといてくれることも、兄弟だとそうもいかないでしょ? 具合が悪そうだと心配するし、良くないことをすれば注意するし」
「よけいなお世話だ、で終わりでしょ?」
「そうもいかないじゃない、兄弟だと。嫌《いや》でも毎日顔をあわせるわけだし。他人なら縁《えん》を切ってしまえばそれまでだけど、それもできないしねぇ」
 ……まあねぇ。
「それでジーンのほうもナルを嫌《きら》ってれば、仲の悪い兄弟、で終わりだったんだろうけど、ジーンって基本的に人を嫌わない子だったから」
「ふぅん……」
「――だから、ナルが死体を探しにいくって言い出したとき、正直《しょうじき》言って驚いたわね。そういうことをするとは思わなかったから」
 森さんにこう言わせるんだから、筋金入《すじがねい》りだな、あの坊ちゃんは。
「日本に来たのはいつ?」
「谷山《たにやま》さんがバイトに来るようになった、三か月ぐらい前じゃないかな。そのくらい」
「えーと、森さんはー、ナルとはどういう関係なんですかー?」
 にぎにぎ。
 森さんはあたしを見る。
「身上調査?」
「はい。今回は大手を振って」
 言うと、森さんは軽く声をあげて笑う。
「あたしは、そうね、平たく言えばナルの上司ね」
 じ、上司ぃ!?
 ぼーさんが軽く身を乗り出す。
「と、いうことは、『SPR』の?」
「ええ。『SPR』にプラット研究所というのがあって、そこのフィールドワーク研究室のチーフなの。一応ね」
 ほえぇぇぇぇ。
「じゃ、ナルはその研究員?」
「そうよ。ナルもリンも」
 言ってから森さんはちょっと複雑な笑みを浮かべる。
「ユージーンも」
 ……そうだったのか。
「それで、森さんがナルの師匠《ししょう》になるんだ」
「そう、昔はね。カメラの扱《あつか》い方から教えてあげたのに、いつの間《ま》にかあたしより熟達しちゃって。おかげで今はナルが送ってくる書類をまとめて偉《えら》い人のところへもっていくのが仕事」
「へえぇ」
 上司で師匠じゃ、頭が上がらないはずだわ。ナルもリンさんも。
「リンさんのおうちもイギリスにあるの? 香港《ほんこん》じゃなくて?」
「そうよ。リンの家族は香港脱出組ね。もともと一族はイギリスにいて、リンの家族だけ残ってたみたいよ。あそこの家族は偏屈《へんくつ》だから」
「偏屈?」
「日本人は嫌《きら》いだし、イギリス人も嫌い」
 うーむ。日本人が嫌いだというのは聞いてたけど、イギリス人も嫌いだとは。アヘン戦争の恨《うら》みをひきずってるのかな? ……にしても、いちいち嫌いな国に行くはめになるなんて、リンさんってば不幸。
「やっぱ、ロンドン?」
 ……なんつっても、イギリスの街の名前なんて、ほかにいくらも知らないんだけど。
「リンの家族はね。リン自身はケンブリッジにいるけど」
 それがどこだか、どういう街だか、あたしにはわからない。
「『SPR』はロンドンにあるんじゃなかったっけか」
 ぼーさんが口をはさんで、森さんはうなずく。
「そう。本部はロンドン。研究所がケンブリッジなのね。リンは研究所の研究員で、ケンブリッジの大学院生だったから、それで」
「へえぇ。……ということは、ナルも?」
「そう。お父さんがケンブリッジの先生だしね」
 ああ、ナルホロ。ケンブリッジ大学のあるケンブリッジか。
「ナルって、日本にいるあいだ学校はどうしてたの? 休学?」
「そう」
「高校生?」
「大学生。もっとも入学手続きをしたきり、一度も行ってないけど」
「ひょっとしてケンブリッジとか」
 ケンブリッジ大学というのはすごーく賢《かしこ》い人の行く学校だ。そのくらいは知ってるぞ。
「そうよ。トリニティ・カレッジ。ウィトゲンシュタインの後輩」
「ふに?」
「ケンブリッジ大学というのは、三十以上のカレッジの総称なの」
「ふえぇ。――十七で? やっぱ、賢《かしこ》いんだねぇ……」
 森さんは軽く首を傾《かたむ》ける。
「むこうでは、一応満十七歳から大学に入れるのよ」
「でも、ずっと日本にいたわけでしょ? 入試なんかはどうしたの?」
「あ、確かに、大学の入学資格を取ったのは普通より少し早かったんだけど。日本に来たときにはすでに資格を持ってたから」
「大検《だいけん》みたいなもの?」
「そんなものね。日本でいう入試のようなものはなかったようよ。資格試験でAレベルが三つあるし、ナルは研究者として実績もあるから、免除されたんじゃないかな」
「へえぇ。さすがに、頭いいんだ」
 だろーなー。うんうん。
 しかし森さんは笑った。
「要は早く好きな研究がしたいだけでしょ。さすがに資格試験の前は猛勉強してたもん。教科書を読みながら研究所の廊下《ろうか》を歩いてて、壁《かべ》にぶつかったりねー」
 ……ぶ。
「う、うそ」
 森さんは悪戯《いたずら》っぽく片目をつぶってみせる。
「あたしが言ったことは内緒《ないしょ》」
「うん」
 壁にぶつかるナルっ。うくくくく。
「怒って壁を粉砕《ふんさい》しなくて、よかったね」
「あのぶんでは気がついてないと思うわ。壁に向かって謝《あやま》ってたから」
「あの、無表情で?」
「あの、無表情で」
 だめだ、こりゃ。おかしーわ。

     3

 笑い転《ころ》げてふと気がつくと、冷たーい視線を感じた。
 ……ふに?
 冷たい視線を向けているのは、その他大勢で。
「どかした?」
 ぼーさんは胡座《あぐら》をかいた膝《ひざ》に頬杖《ほおづえ》をついたまま、
「仲良しさんだねぇ……」
「うん。仲間に入りたい?」
「入りたい……」
 よし。正直でよろしい。
「ひとつ、聞きたいんだがね、お嬢さん」
「なんでしょう?」
「例のビデオで……」
「おじさんは、また、そうやって話を硬《かた》いところに持っていくっ」
 ぷんぷん。
「麻衣《まい》の話が下世話《げせわ》なだけだろーが」
「べーだ。そんなだから、おっさんくさいんだぞ」
「おまえがガキなのっ」
「ほほほ。あたしの若さを妬《ねた》んでいるのね」
「やかましいっ」
 言ってから、ぼーさんはふいに、
「そういや、お嬢さん。リンはいくつ?」
 森さんは声をあげて笑った。
「滝川《たきがわ》さんより上であることは確実ね」
「よかったー」
 しみじみ言うところが、おっさんの証拠だな。最年長じゃなくてよかったね。
「――って、そんな話をしたいわけじゃなくて。例のビデオを撮影した時にはナル坊は倒《たお》れなかったのかね? 五十キロの物を吹き飛ばすといやぁ、相当な消耗《しょうもう》だろーに」
 ……やっぱり硬いところに持っていったな。年寄りはくどいんだから。
 森さんはちょっと言葉を探す。
「……なんて言うか……。ナルが消耗するのには、わけがあるの」
「ほう?」
「以前はそんなに消耗する必要がなかったのね。というのは、ユージーンがアンプリファイアの働きをしいたから」
「――なんです、そりゃ」
「ごめんなさい。あたしにもわからないの、よくは。ただ、ナルが小さな気をジーンにトスすると、ジーンがそれを増幅して送り返す、そういう現象だったみたい。何度もトスを繰《く》り返すうちに、気は成長していくわけ。だから、たいして消耗する必要がなかったんだと思うの」
 ……ふうん。
「実際、よくわからないのよね。ナルはあまりサイ能力の実験をしなかったから。実験したところで、破格すぎて分析《ぶんせき》できないところがあったし。本人もあまりサイ能力研究には興味がなかったみたい」
「へえ」
「ほかにも、あの双子《ふたご》の間にはけっこう超自然的な現象があったみたいなんだけど、それもはっきりしなかったのよね。ふたりとも言わなかったし、兄弟の間でだけできることだから、って実験もほとんどしなかったし。ルエラ――お母さんが実験材料になるのを嫌《いや》がったから」
 ……よくわかんない。だけど、やっぱ森さんも専門家なんだなぁ。
「なるほどねぇ……」
 ぼーさんの声にうなずいてから、森さんはちょっと真面目《まじめ》な顔をする。
「念のためにお願いしとくけど、このことはナイショにしてね。マスコミの耳に入ると困るから」
「……気持ちはわかりますけど、そうムキにならなくても」
 ナルならTV取材なんか、あの毒舌で切り捨ててしまうと思うけどぉ?
「万が一にもマスコミに写真が出ると困《こま》るの」
「どうして? そりゃ、女の子が騒《さわ》いであっというまに……」
「違《ちが》うのよ」
 うに?
「ジーンはこの国で死んだわけね。ナルの証言を信用するなら、殺されたと言ってもいい」
「……うん」
「おそらく、犯人はこの国の人よね。その犯人が、自分が殺した人間と同じ顔を見たらどうすると思う?」
「――あ」
「犯人がどういう人間かにもよるけど、ひょっとしたらすごーく危険なことになるかもしれないでしょ? だから、マスコミには秘密にしておきたいの」
 そっか。そうだね。
 ……大変だなぁ。
 ふっと降りた重たい空気を浮上させるように、そういえば、と森さんはごく軽い口調《くちょう》で言ってぼーさんを見た。
「滝川さんはナルのファンなんですってー?」
 ――は?
 誰《だれ》もが首をかしげてから、いっせいに爆笑した。
「そっか。ぼーさんはデイビス博士の大ファンだもんねーっ」
「やったー。よかったじゃない。いっぱいお話できて」
「サインもらわないんですか」
「お知り会いだもん、楽勝よぉ」
「博士にもファンだってバレてるよ。目の前でずいぶん誉《ほ》めてたもんね」
「そうそう」
 ぼーさんは頭を抱《かか》えた。
「頼むから、それを言うなって。……一生懸命《いっしょうけんめい》考えねえようにしてんだから」
 本当に情けなさそうで、大爆笑。
 知らないほうが幸せなことって、あるよねー。うんうん。
 バカ笑いしてたときだった。ノックの音がして、綾子《あやこ》が返事をする。ドアを開けたのはリンさんだった。
「まどかはいますか」
「いるわよぉ」
 森さんが笑って手をあげるより先に、リンさんが堅《かた》い声をあげた。
「――見つかりました」
 全員が腰を浮かした。


十五章 八月十四日 午後六時以降


     1

 バンガローを飛び出すと、水辺には野次馬《やじうま》を含めて何人かの人々が集まっていた。
 周囲は濃厚《のうこう》に夕暮れの気配。岸は山の影に入って、影のない湖上のボートのあたりが照明を当てたように鮮《あざ》やかだ。西日を浴《あ》びて水面がキラキラ輝いている。
 モーターボートのそばの水面にダイバーの黒い頭が顔を出した。ボートの中から手が差しのべられ、その手にロープが渡される。ボート上の人物がロープを引くと、やがて水面にくすんだ灰色の布の塊《かたまり》のようなものが浮かびあがってきた。水中のダイバーがボートに上がり、ボートが動き出す。岸に向けて。
 あたしたちは何かの儀式を見るような気分で、その光景を見ていた。
 ボートが岸に着いた。水際《みずぎわ》に乗り上げて、とまる。飛び降りたダイバーがロープを引くと、灰色の……いや、汚《よご》れた銀色のシートに包まれたものが手繰《たぐ》りよせられてきた。それを水際に上げる。少し離れたところから見守っていた人の間から、ひとりの人影が水際に歩き始めて、それがナルだった。
 ナルは引き上げられた布の塊のそばに屈《かが》みこむ。手を伸ばして、それを中年のダイバーが制止するのが聞こえた。
「やめなさい」
「いえ、だいじょうぶですから」
 落ち着いたナルの声。表情の欠落した。
 ナルはシートにひざまずく。白い手を伸ばしてシートをめくった。シートの包みの端《はし》からは、わずかに漆黒《しっこく》の髪がのぞいて見える。そばにいたダイバーが目をそむけた。
 ナルはじっとそれに目を落とし……そうして落ちついた手つきでシートを戻して、黙《だま》ったまま立ち上がると、水際伝いに歩き始めた。
 涙も苦痛の色もない静かな横顔だった。

 そこから大騒ぎになったわけだけど、あたしと綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》、そして森さんは早々にその場を立ち去ってバンガローに戻った。ナルのお母さんを連《つ》れて。
 お父さんは、マーティン・デイビス。お母さんが、ルエラ・デイビスとおっしゃるそうだ。お父さんは森さんによると、博士号をもらっちゃったナルと区別して、デイビス教授と呼ぶらしい。年齢はわからないけど、あたしたちのお父さんやお母さんの年代よりいくらか年配だと思う。
 そうして、デイビス教授は茶色がかった赤毛、デイビス夫人はみごとな金髪をしていた。目の色は教授がブルー、夫人が紫《むらさき》。
 デイビス夫人はたくさん泣いた。かわいそうでかわいそうで、なぐさめる言葉もなかったぐらい。ずいぶん時間が経《た》って、窓の外が暗くなってから、夫人は森さんの肩に伏《ふ》せていた顔をやっと上げた。
「どうも、すみません」
 ちょっとたどたどしい感じの日本語だった。
「ごあいさつ、しないで、ごめんなさい」
 誰《だれ》もが首を横に振って、それを泣きはらした目で見てから、
「わたしの日本語は、わかりますか?」
「とてもお上手《じょうず》ですわ」
 真砂子が言うと、夫人はやっと微笑《わら》う。それでも微笑った口元が震《ふる》えているのが痛々しかった。
「ふたりは、日本語で秘密の話をするので、日本語の勉強をしました。けれど、日本語は難《むずか》しいです。うまくしゃべれなくて、ごめんなさい」
 ふたり、というのはナルとお兄さんのことだろう。
「ナルが、とてもお世話になって、ありがとうございます」
「とんでもありません。こちらこそ」
 真砂子が会釈《えしゃく》をして、綾子が立ち上がる。
「お茶をいれなおしますね。冷《さ》めてしまったから」
「あの……。ご愁傷《しゅうしょう》さまです」
 あたしが言うと、夫人は森さんを見る。森さんが何かを英語でしゃべって、それから夫人はあたしら微笑《わら》った。
「ありがとうございます。あなたは、谷山《たにやま》サンですか?」
「はい。そうです。どうぞよろしく」
「どうぞ、よろしく。ナルは気難しいので、たいへんです。どうも、ありがとうございます」
 そうおっしゃったから、あたしがオフィスでバイトしてることをご存じなんだろう。
「本当に、少し気難しいですね」
 言うと夫人は笑う。
「けれど、いい子です」
「わかります」
「わたしは、ふたりが、とても自慢《じまん》です」
 言ってハンカチを握《にぎ》って手を開く。掌《てのひら》の中に名刺大の写真立てが握られていた。それをそっと撫《な》でる。あたしがのぞきこむようにすると、それを渡してくれた。
「とても、自慢です」
 写真の中にはふたりの少年が写《うつ》っていた。同じ顔。同じ背丈。片方が一方よりも幾分《いくぶん》顔つきが優《やさ》しい。ふたりのナル。
「……ジーン?」
 あたしは一方を指さす。ジーンは微笑《わら》っていて、ナルはちょっと眉《まゆ》をひそめてるけれど。
「ジーンがふたり、いるみたいですわね」
 横からのぞきこんだ真砂子が言って、あたしは確かに、と思う。
 ナルがふたりというよりも、むしろその写真はふたりのジーンを写しているように感じられた。理由はすぐにわかった。ナルが、ネイビーブルーのセーターを着ている。シャツはタンガリー。こんな服装をしているナルを初めてみた。
 ……ああ、そうか。
 あたしは納得《なっとく》する。
 あれは……喪服《もふく》だったんだ。
 真っ黒の服。ジーンのための。
 ――失われた半身のための。
 ふいに涙がこぼれそうになって、あわててこらえた。あたしには、お母さんを前にしてなく権利なんてない。この悲しみはまず、ジーンをよく知っていて、彼のことを好きだった人のものだ。
 あたしは写真立てを夫人に返した。夫人は本当に大切そうにそれを掌《てのひら》の中に握りこむ。
「ジーンが、かわいそうです」
 夫人は言って、もう一度涙を浮かべた。
「ナルも、つらかったと思います。かわいそうです」
「はい……」
「一緒《いっしょ》に生まれてきたのに、こんなふうに別れるのはいけないです。ほんとうに、かわいそうです」
「あたしも、そう思います」
 言ったら、涙が出てきて我慢《がまん》できなかった。あたしはその場を立ち上がって、外に向かって足早に出ていった。

     2

「だらしないなぁ……」
 あたしは林の木に背中をもたせかける。月の光が降っていたる
 あたしが泣いてちゃいけないのに。あたしより辛《つら》いひとがいるのに。慰《なぐさ》めて、励《はげ》ましてあげなきゃいけないというのに。
 それでも上を向いてないと、ポロポロ涙がこぼれてきそうだった。
 すごく胸が痛いよ。……苦しい。
 どうしてこんなに辛いのか、よくわからない。
「ふみー」
 泣きたい。でも、泣きたくない。
 それで、声をかけられて、ほっとした。
「何をやってる」
 呆《あき》れた調子の声はナルで、ごしごし顔をこすって、声のしたほうを見ると、本当に呆れた顔をしたナルが見えた。
「月を食べるつもりか? 口を開けて待っていても月は落ちてこないが」
 ……まったく、口が悪いっ!
 でも、おかげで涙が引っ込んだので、特別に許してあげよう。
「べつに食べたいわけじゃないよーだ」
「ルエラは?」
 お母さんのことをそう呼ぶんだな、と思った。
「あたしたちのバンガローにいる。……お兄さんは?」
「警察が運《はこ》んでいった」
「ふぅん……」
 どうしてこう淡々《たんたん》としてるんだろう。まったくいつもどおりなのがちょっと腹立たしい。
「正直《しょうじき》じゃないんだから……」
「何が?」
 バンガローの明かりのほうへ歩き始めていたナルがふりかえる。
「ひねくれものっ! ちょっとは正直に泣けば?」
「べつに泣くようなことじゃない」
「だって、悲しいでしょ?」
 ナルはちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「あいにく僕は情感の機微《きび》がわからない馬鹿者《ばかもの》なもので」
 こいつ、根にもってやがんな。
「素直じゃない」
「人は誰《だれ》でも死ぬんだ」
 声は静かだった。
「百年も経《た》ったら、知り合いはひとりも生きてない」
「そういう問題じゃないと思う」
「そういう問題だ」
 ホントに朴念仁《ぼくねじん》なんだから。
 あたしは月を仰《あお》ぐ。
「ナルはイギリスに帰っちゃうんだ……」
「ああ」
 言ってもいいよね。いまさらだもんね。
「……あのね、好きだった」
「好意を持っていただけることは、昼間に嫌《いや》というほどお聞きしましたが」
「馬鹿者。そういう意味じゃない」
 あたしはナルを見る。ちょっと不思議そうにあたしを見ているので、思わず笑った。
「鈍《にぶ》いなー」
「何が」
「あのね。すごーく特別な意味で好きだったの」
 ナルはあたしを見返す。漆黒《しっこく》の瞳。ちょっと首をかしげるようにして、それから白い顔がほのかに微笑《わら》った。
「僕が? ジーンが?」
 一瞬、ポカンとした。
 何を言い出すんだ、こいつは。
「そんなの……」
 そんなの、決まってるじゃない。そんなの。
 帰ってしまうナル。だから伝えておこう、そう思ったのに。もう会えないから、もう。 ……二度と会えない。
 あの笑顔を見ることはない。二度とどんな夢の中にも、もう彼は現れない。
 答えられなかった。悔《くや》しくて悲しくて涙がこぼれた。
「だって……っ。知らなかったんだもんっ」
 知らなかった。あれがナルじゃないなんて。もうこの世にはいないひとだなんて思わなかった。きっといつかナルがあんなふうに笑ってくれるんだと思ってた。ナルは絶対にあんなふうには微笑わないのに。
「あたし、知らなかったから……っ。なんにもわかってなかったから」
 いつも助けてくれたのに。励《はげ》ましてくれたのにお礼も言わなかった。ずっと勘違《かんちが》いしたままで、最後まで間違えたままで。
「ずっと、ナル、って」
 そんなふうにしか、彼を呼ばなかった。一度だって本当の彼を知ろうとしなかった。
 胸が痛い。死にたいぐらい苦しい。
 その場にうずくまって、声をあげて泣いた。

     3

 ずいぶん経《た》ってから息が治《おさ》まって、ようやく顔を上げられるようになった。
「どうせ……」
 近くで声がして、驚いた。すぐ横に立っているナルを見つける。とっくにいないんだと思ってたので、ちょっとポカンとしてしまった。
「どうせ、嫌《いや》でもまた会うことになる」
 そっぽを向いたままの白い顔。
「……百年ぐらいして……?」
「麻衣《まい》の場合は、二百年ぐらいあるかもしれないな」
「ふーんだ」
 妙に力が抜けてねあたしはぺたんと土の上に座り込んだ。
「あたしって、本当に長生きするわ。まぬけでお馬鹿《ばか》で、あきれちゃう」
「だろうな」
「そこで否定してほしーんですけどぉ」
「真実は直視したほうがいいと思うが?」
 ふーんだ。
「……言ってくれればよかったのよ。最初からちゃんと事情を話してくれたら、こんな勘違いをしないですんだんだからね。うらんでやる」
「勘違いするほうがどうかしてる。僕があんな、おせっかいな性格か?」
「そうよねぇ……」
 笑ったら、また涙がこぼれた。
「馬鹿みたい。……そうとは知らずにナルのすることに一喜一憂《いっきいちゆう》して」
「へぇ?」
 夜の林で、月の光が降ってて、虫が、か細い声で鳴いてて。
「ムード満点じゃないかぁ」
「は?」
 あたしは上を向いて舌《した》を出した。
「ちょっと前までなら、絶対にわくわくした状況よね」
「同意を求められても困《こま》るんだが」
「わくわくしたの。オトメゴコロはそういうもんさっ。……なのに、まったく別人だと思うと、ありがたみもなんにもないわねー」
 言ってから、自分を小突《こづ》く。
「……いけね。これってひどい失礼な言いぐさだね。ごめん」
「べつに。馴《な》れてる」
 そっけない声にふり仰《あお》ぐと、ナルはちょっと眉《まゆ》をあげる。
「顔も同じで才能も同程度。一方は性格がよくて、一方は悪い。――どちらを選ぶ?」
「性格のいいほう」
「そういうことだ」
 ……そっか。
「ナルって、……けっこう哀《あわ》れなヒトなのね」
 ひょっとして周囲の女の子、ぜーんぶお兄さんにとられてきたでしょ。
「静かでありがたかったんだが」
「学者馬鹿」
 ナルがあたしを見るので、あたしは笑ってやった。
「単なる学者馬鹿だって、ジーンがゆってた」
 ナルは溜《た》め息《いき》をつく。それを笑って立ち上がった。
「本当に外見は似てるのに、中身は全然違うのねー」
「ご期待に添《そ》えず、申しわけありません」
「うん。少しでも性格が似てたらヨロメクのになぁ」
 あたし、失礼なことをいっぱい言ってる。ごめんね。許してね。今はこうしないと立ち上がる元気がでない。
「まにあってます」
 あたしは笑う。
「ひょっとして、好きな人いる?」
 聞くと、ナルはちょっと驚《おどろ》いたようにする。
「僕が?」
「そう。……いないか、やっぱ。一瞬《いっしゅん》、イギリスに会いたいひとがいたりして、と思ったんだけど」
 真砂子《まさこ》のために聞いといてあげよう。あたしって優《やさ》しいなぁ。
「もう五年くらい追いかけてる女性ならいるが」
「うそ! まじ?」
「……ウインブルドンの女性で」
「あの、テニスのウインブルドン?」
「そう。古い家の屋根裏部屋に住んでいて」
「いくつぐらい? 綺麗《きれい》なひと?」
「さあ。年は八十過ぎに見えるが」
 ……がっくり。
「生きてる人なんでしょうねぇ?」
 ナルはちょっと笑う。
「非常にクリアなデータがとれるんだ。一年のうち、この時期しかあらわれないんで、帰ったら真っ先に会いにいこうとは思ってる」
 ……やれやれ。本当に楽しそうなんだもんなー。
「……そんなふうに、一年に一度でもいいから会えたらいいのにね」
 誰《だれ》に、とは言わない。
「会えないほうが喜ぶべきことだろうな」
「……そうだね」
 月にさらされた横顔が本当に似てる。泣けてしまうぐらいに。
「笑顔が綺麗で、好きだったの……」
「そう」
「本当に、本当に、綺麗だったんだよ」
「ああ――」

     4

「麻衣《まい》、だいじょうぶ?」
 綾子《あやこ》に声をかけられて、目をさまして。うーん、まぶしい。
「おふぁよ……」
「だいじょうぶ? あんた、瞼《まぶた》、腫《は》れちゃってるわよ」
「あやー……」
「冷やしたほうがよろしくてよ」
 真砂子《まさこ》が濡れたタオルを渡してくれる。
「まいったなー。目が開かないよー」
「夜中にメソメソ泣いてたんでしょ」
「うん。夜中に起きたら、泣けちゃってー。ひょっとしたら、ゆうべの夢で会えるかな、って期待してたみたい」
 ゆうべ、バンガローに帰ってから、あたしは綾子と真砂子にあらいざらいしゃべっちゃったわけ。なんか、黙《だま》ってられなくて。
「ほら、目薬。注《さ》しときなさい」
「ありがとー……」
 うー。朝日と目薬が目にしみるよぉ。
 手鏡を出してのぞきこむと、本当に瞼が腫れちゃって、むくんじゃって悲惨な顔。
「うーん」
「ほら、ちゃんと冷やして」
「ねぇ、悲劇の大恋愛って、言葉面《ことばづら》は綺麗《きれい》だけど現実はみっともないね」
「なに馬鹿《ばか》なことをしみじみ言ってるの。その顔が一日過ごす気?」
 はーい。
 横になって濡《ぬ》れタオルを顔にのせる。すごく気持ちいい。
「今日は、朝ご飯は向こうにするわね。あんたのぶんはこっちに持ってきてあげるから、しばらく寝てなさい」
 綾子の声がして、玄関のドアが開く音がしたので、あたしはタオルをのせたまま手をひらひらさせた。
「ねぇ、真砂子ー」
「なんですの?」
「ゆうべしみじみ思ったんだけど、真砂子は可能性、あるよ」
 軽い溜《た》め息《いき》が聞こえた。
「何を言い出したのかと思えば……。ご心配なく。自分でもそう思ってますわ」
「へえぇ」
「会いに行けば済むことですもの。飛行機のチケットぐらい、買えないわけじゃありませんし。もっとも会いに行っても、会ってくれるかどうか、疑問ですけど」
「だいじょうぶだよ」
「そうですかしら」
「うん。今まではさー、ナルも気持ちに余裕《よゆう》がなかったんだよ、きっと。ジーンを探さなきゃ、ってそれでいっぱいで」
「だといいんですけど……」
 うん。確かに疑問は残るけどね。
「望みあるって。ずーっと前に、真砂子、ナルと腕を組んでたじゃない。振りほどかないってことは、まんざらでもないんだよ、きっと」
 真砂子の溜め息が聞こえた。
「あれは違《ちが》うと思いますわよ」
「違うって?」
「ナルはどうやら、そういう性格らしいんですもの」
「はぁ?」
「ベタベタ触《さわ》られるのがすごく苦手《にがて》みたいですの」
 ……ほう。
「どうしていいのかわからなくなるんじゃないかしら。最初に腕を組んだとき、一分くらい硬直してましたもの」
 あたしは起き上がった。タオルが落ちて真砂子が見える。
「……ほんとに?」
 一分、ってとこがリアルだよな。
「本当に」
「……へえぇ。しかし、あんたよく、自分から腕を組みにいくよな」
 真砂子はつん、とそっぽを向く。
「自分でもちょっと、はしたないかな、と思いましたけど。だって、ちっともわかってくれないんですもの」
「あー。なるほど」
「これは苦手なんだな、と思って。あとはほんの嫌《いや》がらせですわ」
「そういう歪《ゆが》んだ好意の示し方はよくないぞー」
「わかってますわよ。だから最近はやってませんでしょ」
「えらいっ。がんばれー。急がないとあたしも参戦しちゃうぞ」
「どうぞ」
 をを。余裕の発言。
「本気になってもいいのかにゃー? どう考えたって顔は似てるんだもん」
「そういう不純な考えのひとには譲《ゆず》りませんっ」
「あははは」
「参戦するつもりでしたら、その顔をなんとかしたほうがよろしくてよ」
 べし、とタオルを目許《めもと》に押しつけられた。
「へーい」
「あたくしはむこうの手伝いにいきますけど、ちゃんと冷やしてること。さらに泣いたら、ふた目と見られなくなりますわよ。モトがモトなんだから」
「よけーなお世話。どーせあたしは、真砂子ほど美人じゃないよっ」
「あら、そんなわかりきったことをいまさら」
 タオルをはずして殴ろうとしたら、すでに真砂子は射程外。
「おやすみなさいませ」
 艶《あで》やかな笑顔に手を振った。
「はいはい。おやすみぃ」
 ……だいじょうぶだよ、泣かないよ。
 これ以上ないくらいのお別れだけど、気持ちを否定されたわけじゃない。しばらくは落ち込むと思うけど、そのうちちゃんと元気になる。
 今は辛《つら》いけど、本当に辛いけど、人間てのは能天気《のうてんき》なばっかじゃいられないんだから、しかたない。きっとみんなにもこういう辛いことがあって、それをちゃんと乗り越えてきたんだと思うから。人生ってそういうもんだよね。
 ……なんて、あたしが言うとナマイキかなぁ。
「言いたいこと、ってなんだったんだろう……」
 それだけが、気がかり。
 最後に会ったジーンのあの言葉。
 ――言いたいことがあったんだけど……。
 謎《なぞ》のすへてが解《と》かれるわけじゃない。それもまた、人生かもしれない。

エピローグ


 去っていくひとがあれば、送別会なるものが催《もよお》されるのが、日本では常識だ。
 送別会をやろう、とバンガローで言い出したのが誰《だれ》だか覚《おぼ》えていない。けれど、全員があっさり賛成したのは覚えてる。はっきり言って、送られるふたりはお祭り騒ぎが嫌《きら》いだ。だからこれは、親愛の情を込めた嫌《いや》がらせなんだな。
 本当なら「送別会をする」と言って引っ張り出せる相手ではないのだけど、今回は森さんがついているから強いのだ。
 見つかった翌日、彼の遺体は警察から戻ってきて荼毘《だび》にふされ、そのまま飛行機で故国に送られることになった。ナルのご両親がひと足先に帰国し、そのすぐあとを追ってナルもリンさんも森さんも帰国する。
 ――その当日。三人が成田《なりた》へ行く前に送別会をやらかそうというわけ。
 あたしは約束の時間よりかなり早く新宿《しんじゅく》に向かった。森さんに聞きたいことがあった、というのが表向き。じつは単に、秘密のナルちゃんが生活していた場所をちょっとだけのぞいてみようという魂胆《こんたん》だったりする。
 超高層ビルが立ち並ぶ、新宿西口側。いわゆる、新宿副都心。そこにあるホテルが目的の場所で、送別会の会場ってわけ。
 都庁のあたりから電話をして、森さんに訪ねてもいいか、聞いてみる。あっさり「時間までお茶でも飲みましょ」ということになって、あたしは気後《きおく》れ半分、わくわく気半分で豪華《ごうか》なホテルの玄関に向かった。

 指定されたティー・ルームをのぞくと、すぐ正面に森さんが座っていて顔を上げた。
「こんにちはー」
「こんにちは。出発の準備はすみました?」
「うん。どうせたいした荷物はないしね」
「すみません。忙しいときに。そんなたいしたことじゃないんですけど、ちょっとどんな所か興味津々《きょうみしんしん》で」
 オーダーしながら言うと、森さんはころころと笑う。
「正直者《しょうじきもの》っ」
「えへへへ。――ナルとリンさんは?」
「まだ時間があるから。荷物の整理をしてるんじゃないかな」
「たいへんだー」
 なにしろ、長野《ながの》から帰ってきたのが昨日《きのう》だもんね。寝る暇《ひま》もなかったはず。
「とりあえず、送れるだけ送って、荷造りがまにあわなかったら、また改めて発送するみたいよ」
「戻ってくるんですか?」
 森さんは首をかしげた。
「んー。たぶん戻ってくるのはあたしだけだと思うな」
「へえぇ。どうしようかなぁ。じゃ、その時にってわけにもいかないなぁ」
「どしたの?」
「ナルとリンさんの住所を知りたいんです。手紙くらい書けるといいな、と思って」
「あ、なるほど」
「住所を教えてもらうのがダメなら、研究所の住所を教えてもらおうと思って。そしたら、気付で手紙を出せるでしょ?」
 森さんは笑った。
「ダメってことはないと思うわよ。本人たちに聞いてみれば?」
「だいじょうぶかなぁ」
「だいじょうぶよ、きっと。べつに根っから秘密主義ってわけじゃないんだから。――もっとも、返事を期待しないほうがいいとは思うけど」
「でしょうねぇ」
 あたしは溜《た》め息《いき》をひとつ。森さんは苦笑して、
「リンはけっこう律儀《りちぎ》なところがあるから、とりあえず返事ぐらいは書くだろうけど。……ナルはねぇ……」
 ま、それはわかってたけどさ。
「そういえば、オフィスはどうするか聞いてます? 合い鍵《かぎ》も返してないし……」
 オフィスはまったく開けてない。とりあえず閉めたまま。あたし個人の私物もあるけど、取りに行く暇《ひま》がない。
「気になることは、本人に聞きなさい。ふたりが言わなかったことは、あたしが教えてあげる」
 そう笑って言って、森さんは上を示した。
「行ってらっしゃい。三ニ一ニ号室」
 あたしは森さんの指をたどって天井《てんじょう》を見上げる。
「……行ってもいいのかなぁ」
 なんだか、とっても邪険《じゃけん》にされそう。
「遠慮《えんりょ》をしたら負けよ」
 森さんはそう言って笑う。
「……はぁ」
「ナルとつきあうコツは、とにかく強気になること。あの子、自分からは人とつきあおうとしないから、遠慮したら縁《えん》が切れちゃうの」
「でも、遠慮しないと、怒鳴《どな》られそう」
「それが、けっこうだいじょうぶだったりするのよ。オフィスに人が集まっても、べつに怒《おこ》ったりはしないでしょ?」
 ……あ、そういうば。
「機嫌《きげん》は悪くなるけど、怒ったことはないかなぁ」
「多少、機嫌が悪くなっても気にしないことね。顔色をうかがったら負け。本気で怒ったらとりつく島もなくなるから、皮肉を言われてる間はだいじょうぶなの」
「へえぇ」
「だから、強気に出た者の勝ち。モンクを言われても無視。皮肉を言われても気にしない。そうすると、なんとかつきあっていけるわけ」
「こっちの忍耐《にんたい》が続くかぎりは?」
 あたしが言うと森さんはころころ笑う。
「そう。こっちに、つきあってあげるつもりがあるかぎりは」
「なるほどぉ」
「ナルってものすごく我《が》が強くみえるけど、意外に最後の最後で押しが弱いのよね」
 ……言えてるかもしんない。
「そういえば、ケンカだって、けっこう勝てるもんなぁ。こっちが引かないかぎり」
「でしょ?」
 あたしは上を見上げる。
「ほんじゃ、強気になってみようかな」
 森さんは笑った。
「行ってらっしゃい」

 長いエレベータに乗って、ホテル独特の廊下《ろうか》を歩いて。三ニ一ニ号室の前で深呼吸。なんのかんの言いながら、チャイムを押すのには、トラの檻《おり》に指先を突っ込む勇気が必要。
 中でチャイムの音がして、すぐにドアが開く。顔を出したナルはあたしを見るなり、腕時計に目を落とした。
「もうそんな時間か?」
「ううん。だいぶ早いの。聞きたいことがあって森さんに会ったら、本人に聞いてごらん、って」
 ナルはちょっと迷惑《めいわく》そうに眉《まゆ》をひそめる。
「あとにしてくれないか」
 ……やはりプライバシーに対するガードが固《かた》いなぁ。
「さようで……」
 すごすご。……と、引き下がっちゃいけないのね。
「何か手伝おうか?」
「必要ない」
「ひとのしんせつは素直に受けるものだよ」
「麻衣《まい》に手伝ってもらったら、片づくものも片づかない」
「そんなことないって。猫《ねこ》よりは役にたつから。まーかせて」
「だから、必要ない」
「楽《らく》できるときは、楽しとくもんだって。聞きたいこともあるし。片づけを手伝いながら聞けば合理的。ね?」
 森さんをまねてニッコリ笑ったりなんかして。
 ……そして、ナルは溜《た》め息《いき》をついた。
 をををを。勝った。そうか、こうすればよかったのか。
 ナルはドアを大きく開いて部屋の中を示した。
 部屋はダブルの部屋で、広くて綺麗《きれい》。カーテンを開いた窓は大きくて、新宿中央公園が真下に見えた。きっといい部屋なんだろうけど、殺風景《さっぷうけい》な感じはいなめない。こんなところに一年半以上も暮らしていたことを思うと、ちょっと哀《あわ》れをもよおしちゃう。
「リンさんの部屋は隣《となり》?」
「そう」
 部屋の中にはダンボール箱がいくつか積み上げてあった。
「服を詰《つ》めてくれるか? 適当にたたんでおけばいいから」
「うん」
 扉が開いて半分片づけのすんでいるクローゼットを示される。黒い服ばかりが吊《つ》るされている光景は少しばかり笑えてしまう。ナルは机の上に積み上げてあったファイルを箱に詰めている。
「ナルの家って、ケンブリッジなんだよね」
「そう」
「住所、教えて」
「聞いてどうする」
「手紙書くの。ほかに考えられる?」
 強気、強気。
「……英語で宛名が書けるのか?」
 なんだとー?
「そのくらい、できらい」
「それは、おみそれしました」
 本当に可愛くないっ。
 ああ、残念だわ。ジーンが生きてて、万が一結婚、なんてことになったら、あたしがコイツの姉だったのにっ。
「お父さんは、ケンブリッジの先生なんだよね」
「それが?」
「何を教えてるの?」
「それを知って麻衣に関係あるのか?」
「あるに決まってるじゃない」
「へぇ?」
「あたしの好奇心が満足するの」
 ナルはもう一度深い溜め息をついた。
「……法学」
 言ってから、ナルは苦笑する。
「あと、パラサイコロジーと」
「へえぇ。『SPR』のほかにも?」
「『SPR』というのは学会みたいなものだから。四年前に直営の研究所ができたけど、彼は研究員じゃない」
 ふーん。よくわかんねぇや。
「ナルは研究員なんだよね?」
「そう」
「森さんの研究室だよね。フィールドワーク研究室?」
「知っているならわざわざ聞くな」
 ……ふーんだ。
「ね、フィールドワークってなに?」
 ナルが軽蔑《けいべつ》も露《あらわ》な顔をした。
「おまえは本当にものを知らないな」
 よけいなお世話。
「実際に現場に行って情報を集めるんだ。幽霊《ゆうれい》屋敷の調査なんか。今やってることとほとんど変わらないな」
「へえぇ」
「ビデオやデーターを送ると、あとはべつのチームの仕事。映像解析《かいせき》のチームやなんかの。そうやって解析したデータを体系づけて理論の中に組み込むのも、専門のチームの仕事になる。一応は」
「一応?」
「僕は本当は理論の人間。リンはもともとメカニックが専門の人間」
「それがどうして?」
 一緒《いっしょ》にはるばる日本まで。
「まどかがフィールドワークのチーフで。それで日本語のでき人間ばかりをかき集めてこうなった」
「あ、なるほどぉ」
 森さんらしいかもしれない。
 服を箱に詰め終えて示すと、ナルがガムテープを放ってくる。それを受け止めて、箱を閉じて。
「……で?」
「で?」
「帰ってからどうするの?」
 ナルは肩をすくめる。
「葬式だけど」
 誰がそんな近未来の話をしておる。
「そうじゃなくて。『SPR』の研究員なんでしょ? やっぱり研究所でゴースト・ハントを続けるの?」
「むろん、そのつもりだが」
「オフィスはどうするの? 一応、タカのぶんも合い鍵を持ってきたけど」
「それは持ってていい」
 ――え?
 あたしはナルを見る。
「まどかがすぐに戻ってくる」
「じゃ、オフィスは残るの!?」
「バイト先をなくさないでよかったな」
 うんっ。――じゃなくて。
「どういう心境の変化?」
 閉めるって言ってたのに。
「状況の変化。分室維持《いじ》の許可がおりたんだ」
 ひえぇ。
「でも、ナルは戻ってこないんだよね?」
「僕が申請《しんせい》をしたんだが?」
「そりゃまたどーして」
「日本の心霊現象は面白《おもしろ》い」
「……そうなの?」
「何か心霊現象のためにいい条件があるんだと思う。だからこのまま分室を残せればと思って申請をしてあったんだが」
 ……とことんワーカホリックなやつ。
「でも、大学はどうするの?」
「どうするか考えてる。退学してもいいし、留学の手続きをとってもいいし」
「んじゃ、すぐには戻れないね」
 ナルは苦笑した。
「しばらくはムリだろうな」
 やっぱりな……。
「ほかのことはともかく、両親が嫌《いや》がるだろうから。しばらくはついててやらないと」
「だよね」
 たったひとり手元に残された双子《ふたご》の片われ。こんな遠くにいつまでも置いておくはずがないもんな。
「ええと、本当のご両親じゃないって聞いた……」
「そう。養子《ようし》」
「孤児《こじ》だった、って」
 言うと、ナルは軽く眉《まゆ》をあげる。
「麻衣と同じく、な」
 ……まさか。
「ねぇ、ひょっとしてそれでバイトをさせてくれたの?」
「なんて言うんだっけ。相身互《あいみたが》い? 相憐《あいあわ》れむ?」
「同病相憐れむ」
「麻衣の学校の校長から孤児だって話は聞いたしな。もっと酷《ひど》い生活をしていると思ったんだが」
「ナルは酷かった?」
「孤児院? 酷かったな。おまけに僕は問題児だったし」
 ……そうでしょうとも。
「そっか。……ありがと。すごく助かったの、実際」
「それはけっこうなことで。――どうせ予算があまってたんだ。実際に人手もたりなかったし」
 をを。
「『SPR』って、お金持ちなんだ」
「研究機関の中ではべつに。僕は特別」
「へえぇ?」
「とある人から、年間で約十万ポンドの研究予算が出てるから」
「ほー。十万ポンドってどれくらい?」
「一ポンドが約二百三十円。そんなことも知らないのか」
 ドルならともかく、ポンドなんて普通知らないって。
「正確に言うと十五万米ドルだな」
「一ドルは百六十円くらいだよね」
 ふふん、それくらいは知ってるのさ。
「そう。……で?」
「で。十五万ということは……」
 えーと、紙はないのか、紙はっ。
「二千四百万。おまえは本当に頭が悪いな」
「やかましいっ」
 言ってから、血の気が引く庶民《しょみん》の悲しさ。
「に、にせんよんひゃく、まんえん!?」
「そんな、たいそうな額じゃない」
「たいそうな額だよぉ」
「カメラをひとつ買ったら終わり」
「あんたの金銭感覚は異常だ」
「僕の裁量で使っていいだけで、生活費になるわけじゃない」
「そら、そーだろーけどさ」
 言ってあたしは部屋を見回す。
「ここの滞在費は?」
「善意の寄付でまかなわれております」
「あんたに善意を湯水のごとく渡す人の顔が見たいわ」
「見る目のある方というものはいらっしゃるようで」
「猫かぶり」
「猫をかぶったら、今の倍は取れるかもしれないな」
 それが妙に真剣な口調《くちょう》で、あたしは思わず溜《た》め息《いき》をついた。
 時間までに荷造りを追えて、ホテルのレストランにある小部屋に飛び込むと、もう全員がそろっていた。
「麻衣ー。聞いたわよ」
 綾子《あやこ》が手を振る。
「にゃっ?」
「オフィス、残るんだってー?」
「うんっ。そうなのー」
「よかったわねぇ。生活の心配をしないですんで」
「よかったねぇ。あたしにたかられずにすんで」
「あんたみたいな小市民にたかられて困るほど、お財布《さいふ》は小さくないわよ」
 ……ほう。いいことを聞いた。たかってやるー。
 森さんはグラスを渡してくれながら、
「あたしがしばらく所長代理よ。ヨロシクね」
「はいっ。こちらこそ」
 ふふ。こりゃ、なごやかな職場になるぞー。
「リンさんはどうするの?」
 聞くと、リンさんは無表情のまま、
「しばらく戻ります」
「そっか。お気をつけて」
「――どうも」
 そうだ。今のうちに聞いておきたいことがあったんだ。
「あのう……、前に日本人は嫌《きら》いだって話をしてたことがあったでしょ?」
「ありましたね」
「あのとき、あたしと同じことを言ったのって、ジーン?」
 リンさんは少し瞬《まばた》きしてから、うなずいた。
「……そっか」
 ホントだ。あたしとジーンって、ちょっと思考回路が似てたんだなぁ。へへへ。うれしーや。キャンプ場にいる間、森さんに彼のことをいっぱい聞いて、前よりもっと好きになった。もう望みはないけど、振られることもないんだから、考えようによっちゃ、おとくかも。
 へらへら笑ってるとナルと視線が合った。ちょっと、呆《あき》れたような顔つき。
「なんだよー」
「べつに」
「今、単純なヤツ、とか思ったでしょー」
「よくおわかりで」
 ふーんだ。どーせあたしは単細胞。
「――ああ、そうだ。忘れるところだった」
 ナルはジャケットの内ポケットから小さな包みを出した。
「これ」
 ――ふに?
 男物のハンカチで包んであるそれは名刺大で、ちょっと厚みがあって堅《かた》い。開くと、ナルのお母さんが持ってた写真だった。
 中の写真に写っているのはナルと、微笑《わら》っている彼。
 ……胸が痛い。うれしくて。悲しくて。
「……これが、どうしたの?」
 ああ、あたし、彼の写真さえ持ってない。小さく写った集合写真でもいいから、手元にあればいいのに。
「ルエラが忘れていった。なくした、ということでもルエラは気にしないと思うけど?」
「……もらっていいの?」
 ほんとに?
「捨てた。あとのことは知らない」
 あたしの掌《てのひら》はゴミバコかっ。
 ……ま、いいや。うれしーから。
「ありがと……」
 やっぱナルって、けっこういいヤツじゃなーい。えへへへ。
「なーにをニヤニヤしてるのかなぁ?」
 がしっと、ぼーさんに首根っこをつかまえられて。
「ナイショ」
 もったいないから、隠《かく》しちゃえ。
「ほう。それはゼヒ聞きたい」
「んー」
「言ってごらん。ほれ」
「――好き、っていう気持ちは、相手のことを忘れるまで続くんだよ、知ってた?」
 ぼーさんはちょっとパチクリしてから、にんまり笑う。
「ナマイキを言うようになったのう」
「でしょ?」
 写真立てを忍ばせたポケットが暖《あたた》かかった。
 ひとりでも恋はできるから、もう泣かない。


あとがき


 上巻のお約束どおり、ちゃんと来月になりました。
 これにて、皆様にご愛顧《あいこ》いただいたこのシリーズ、いったんは終幕でございます。
 本当に、本当に長い間のご声援、ありがとうございました。作者としてはただただ頭を下げるのみでございます。ふかぶか……。

 思えば長い年月でございました。四冊くらいでこういう話を、と考えたときにはまさかこれほど長い時間がかかるとは夢にも思わなかったのです。
 四冊のはずが五冊になり、五冊のはずが六冊になり……。「やめるな」と大量のお便りをいただいたときには、ホント、どうしようかと思いましたです。
 とりあえず終わることができて、ホッと一息。背中に背負っていた子供を、ちょっと降ろした気分に似ているかもしれませんね。するとやっぱり、背負っていたのはゴースト・ハンターズでしょうか。八人も背負ってたんじゃ、重いはずだよなぁ(笑)。

 シリーズを始めた当初は、こんなに麻衣《まい》が皆様に応援していただけるとは思ってもみなかったのです。小野《おの》自身、本を読むときに主人公の女の子は、たいがいどうでもいいタイプですので、きっとこのシリーズを読んでくださる方もそうだろうな、と思っていたら嬉《うれ》しい誤算。本当は女の子の一人称ってニガテなんですけど、ティーンズハートでお仕事を始めたときは「ああ、書きにくいよー」なんて思っていたのですけど、おかげさまで麻衣はとっても書きやすかったです。姉でも妹でもいい、一家にひとりこういう子がいたら、退屈《たいくつ》しないだろうなー。……そういう感じで書いてました。
 同じく誤算だったのが、ナルかな。まさかこ――――んなに、物好きな女の子が多かったとは(笑)。「ナルは誰《だれ》にも渡さない」という過激派《かげきは》から、「ぜったい麻衣と幸せにしてやってね」という穏健派《おんけんは》まで様々でしたが……。でもね、「あたし、ナルのファンなんです!」と言ってきたアナタやアナタ。キミ達は本当にナルが恋人になって後悔《こうかい》しないのかな?
 ――まぁ、ナルの罵詈雑言《ばりぞうごん》というのは、書いてて気持ちいい面もありましたけど。でも、けっこう秀逸《しゅういつ》な皮肉を考えるのって難しい……。それをしみじみと悟《さと》ってしまった小野でございます。
 でも、……今回で、ナルの人気も大暴落《だいぼうらく》かも。あわれよの……。
 心残りといえば、その他のキャラをもう少し活躍させたかったな、ということでしょうか。あと、全員の私生活とかね、書けるとよかったんですけど。
 ……それについてはまぁ、またいずれチャンスがあるハズだ……。あってほしいものだ。……あるといいなぁ。

 ――というわけで、お詫《わ》びです。
 上巻のあとがきでも言いましたが、改めて。本当に遅《おそ》くなってしまって、ごめんなさい。「今月も出てなかったですね」というお手紙をいただくたび、胃が痛かった……。
 いえ、決して遊んでいたワケではないのですよ。カメはカメなりにがんばってはいたのです。ちょっとがんばりすぎて、ノビたりもしましたが……。ううう。
 ああ、でもこれでもうファンレターに怯《おび》えることもないのね(うるる)。
 ――そうそう、ファンレターといえば。
 本当にいつもたくさんのお手紙をありがとうございます。お返事を書けなくてごめんなさい。「いつまででも待ってます」とか「返信用の切手を同封しておきました」などと書かれていると、これまた胃が痛い……。
 小野は仕事しかしなくてもこんなに本が出るのが遅いくらい、それはそれはノロマですので、本当にお返事は書けないのです。小野なんかの、汚《きたな》い字で書き殴《なぐ》ったような手紙を持ってくださるのは嬉しいのですが、お返事を書き始めると本が出るのはいつになるかわかりません。そういうわけで、本当に本当にごめんなさい。
 FCへの問合せも、たくさんありがとうございました。現在FCは入会を受け付けておりませんが、あまりにたくさんの人がこぼれ落ちてしまったので、代《か》わりにといってはなんですが、情報ペーパーを発行することにしました。なんということもない、小野の近況や何かが書いてあるだけのペーパーですが、それでもよろしければお申し込みください。詳《くわ》しい申し込み方法は「あとがき」の最後を見てね。
 いつもいつも、お手紙のみならず、素敵《すてき》なグッズや可愛《かわい》いプレゼントをどうもありがとうございます。カセット・レーベルやなんかは、有り難く使わせていただきます。本当になんのお返しもできなくて、ごめんなさい。
 そうそう、バレンタインデーにはチョコをありがとうございました。これまではホワイトデーにお返しを(なんとか)していたのですけど、今年は本当に忙《いそが》しくてとうとうお礼できないままになってしまいました。どうも、ごめんなさい。
 怪談《かいだん》や怖《こわ》い体験談、怖い噂話《うわさばなし》を聞かせてくださる方々にもありがとうを。たまった怪談が小野の財産です。本当にありがとうございます。
 お名前を貸してくださる方にもありがとう。小野が本を書くペースというのは、こんなものですから、なかなか順番が回ってこないと思いますが気長に待っててね。今回お名前を貸してくださった方には格別のありがとうを。どうもありがとうございました。
 でもって、素敵なイラストや可愛いカットを描いてくださる方々。ありがとうございますです。いろんなタイプのキャラがいて、本っ当に楽しいです。あーんな麻衣や、こーんなナルや、可愛いのやカッコいいのや、いっぱい見れて本当に嬉しい。噛《か》みしめる作者のシアワセ。これって役得よねー。
 特に同人誌を作って送ってくださる方。パロディ小説やマンガを送ってくださる方。本当にありがとうございます。大変だったろうな、こんなに可愛がってもらってるんだな、と思うと感激してしまいます。
 特に特に。土井姉妹さま、興野さま、野口さま、日野さま、本当に素敵な(それも恐ろしく手間のかかった)ご本をありがとうございます。ぺこぺこ。
 植木さま、小西さま、楽しい小説をありがとうございました。本当にお礼の手紙ひとつ書けなくてごめんなさい(特に八月発売予定が九月十月にずれこんでしまって……スミマセン)。『悪霊シリーズ』以外の同人誌を送ってくださったみなさまにも、心からお礼申し上げます。ぺこり。
 本当に、こんなにいろいろの厚意をいただいたまま、お返しできずに申しわけないです。これではどちらがお客だかわかりませんね。……とほほ。

 ――さて、一年ぶんのありがとうとお詫びがすんだところで。
 本来なら恒例《こうれい》の人気投票にまいりたいのでございますが。
 じつを言うと、人気投票はちゃんと集計して「誰に何票で一位!」というぐあいにやりたいのですよね。しかしながら、それをできない事情があって、しかも集計する時間もない、というわけで今日までアバウトにやってきた私でございます。
 しかも、完結編を書き上げた今となっては、人気投票に果たして意味があるのか……。
 参考までに例の調子《ちょうし》で書きますと、やはりナルの独走トップ。あとを追うのが麻衣。少し離れて追いかけるぼー、さん、続く安原《やすはら》少年、さらに続くジョン、リンさん、綾子《あやこ》。少し遅《おく》れて真砂子《まさこ》。――という順番です。
 やはりヒロインとヒーローは強かった……のかな? この一冊で票がどう動くのか、おどおどわくわくする小野でございますです……。
 さて、問題の結末ですが、パーフェクトに当った方はいるかな? 半分当った人は多かったのですけど。惜《お》しかったのは、多田ますみさん。せっかくパーフェクト正解だったのに、途中で答えを変えてしまったのね……。鋭《するど》かったのは松本裕子さん。本当に惜しかったねー。そして、同じく惜しかった松本順子さん。おシャレで緻密《ちみつ》な推理をありがとう(お手紙を読んで、小野は舞い上がってしまいました)。最終巻を書くにあたり、伏線《ふくせん》を拾《ひろ》いなおすのに、順子さんのお便りが大変参考になったことを申しそえてお礼申しあげます。本当に、本当にありがとうございました。

 さて、最後に近況報告を。
 ……と言っても、報告するほどの近況はなかったりするのですが……。
 忙《いそが》しかったときにずーっとTVを見なかったので、最近のアニメはよくわかりません。トルーパーだのサイバーだのを引っ張り出して見返すばかりの、まるで老後のような生活をしている小野でございます。
 そうそう、よく「○×さんのテープを送りましょうか?」と言ってくださる親切な方がいらっしゃいますが、どうぞお気遣《づか》いなく。「何々に出てましたね」という情報だけで本当に嬉しいです。ありがとうね。
 おっと、そうだ。最近小野はパソコン通信というのをやってます。みなさんには、まだあまり関係のない世界かなぁ? NIFTYってところにいますので、見かけたらよろしく。この場を借りてではなんですが、会議室に感想をアップしてくださるみなさま、どうもありがとうございます。本当に嬉《うれ》しいです。特に、きくなさま。わざわざの捜索《そうさく》願いをありがとうございました(笑)。(サスガにお返事しようかと思ったら、すでにレスがついてましたのです)無事完結編、刊行の運《はこ》びとなりましたです。どうもご心配をおかけしました。

 ――さてさて、本当におしまいになりました。
 最後にもう一度くりかえします。
 長い間のご声援、ありがとうございました。まだまだガンバリますんで、今後ともどうぞよろしく。また、何かの本の「あとがき」でお会いできますように。

   小野不由美

P.S.情報ペーバーの入手方法について。
 簡単《かんたん》なペーパーが発行されるだけで、特にグッズとかそういうシャレた企画はございませんです。ペーパーというのは、要はこの「あとがき」みたいなものです。
 会費などは特にいただきません。発行は不定期、小野が自分で編集しますので(とりあえず)仕事の状況によっては遅れたりするかもしれません。
 興味のある方はお手紙の中に、62円切手を貼《は》ってあなたの住所氏名を明記した返信用封筒を同封してね。
 ちなみに以前FCの入会からこぼれちゃったひと、気を悪くなさってなければ再トライしてみてください。
 申し込みの締め切りは特にありません。のんびり考えてからどうぞ。


おまけ


 霊やなんかのことを調べるには何を読んだらいいの、という質問をたくさんいただきました。それでここに、簡単《かんたん》ながら参考文献の一覧をつけておきます。
 ここにあげたものは基本的に、直接的な資料だけでして、なんらかの形で作中にその論旨《ろんし》を引用、または設定(作品中に書かれていない設定を含めて)に使用したものばかりです。こんだけ読めばあなたにも書ける、『悪霊……』シリーズ、ってか(笑)。
 あくまでも参考に、ということで。これから勉強してみよう、という人にはいいかもしれません。んでも、なかには高価な本もありますので、書店に注文するときには気をつけてね。すでに絶版の本もありますので、これまた注意してください。さらに勉強したい方は、各文献の末尾に掲載《けいさい》された参考文献をイモヅル式にたぐっていく、という方法でどうぞ。申しわけありませんが、文献についてこれ以上のお問い合せにはお答えできませんのであしからずご了承《りょうしょう》くださいまし。

 いいチャンスですので、ここでお詫《わ》びをひとつ。
 過去の作中で、若干《じゃっかん》の知識ミスがあります。もって生まれたウカツな性格が災《わざわ》いして、「タナウス」が「タウナス」にになっていたり、「サイ」と「ESP」等の語句が誤《あやま》って使用したり……(赤面)。すみません、許してください、もうしません、しくしく。
 そうそう、真言《しんごん》が間違っているという指摘《してき》をいくつかいただきましたが、真言にはじつはイロイロあるんですよ(真言はタントラじゃないの、マントラなの。某《ぼう》アニメを信じて責《せ》めないでね。くすん)。
 ぼーさんが使用している真言は、基本的に真言宗に伝承のものを採用しましたが、いくつかの例がある場合には、(その時点で)原典となるサンスクリット語に近い(と思われた)ものを採用しておりますです。綾子《あやこ》が使用している真言は、基本的に両部神道《りょうぶしんとう》に伝承のものを採用していますが、混乱を避けるために真言宗にならっている場合もあります。ご了承くださいまし。
 なお、ジョンが使っている聖書の引用については、日本聖書協会の新共同訳を採用しました(英語のほうがよかったんじゃないか、なんて言っちゃイヤよ)。

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